大江健三郎 / ヒロシマ・ノート 沖縄ノート


“ 1958年は「ヒロシマ」においてあらゆる文学者が写真家によってはるかに追いこされた年度になるだろう。いかなる文学作品も1958年に、この写真集よりもなお現代的であることはできなかった。(中略) わたしはこの少女の手術の一連の写真に、戦後の日本でもっとも明確に表現された、人間世界の不条理と、人間の虚しいが感動的な勇気の劇を見る ” ― 土門拳の写真集『ヒロシマ』について大江健三郎はこのように記している。

1958(昭和33)年、つまり大江健三郎が史上最年少(当時)で芥川賞を受賞した年である。今でこそ彼が戦後日本の民主主義体制について、3.11後の現代まで実に息の長い発言を続けてきた作家であることは知られているが、作家生活のスタート年に『ヒロシマ』を見たことが、その後の彼の活動と作品を方向づけたと言えるのかもしれない。『飼育』や『死者の奢り』を書いていた若者が戦後社会を肌で感じ取るために大学と書斎を抜け出し、「もっとも現代的」な現場へと足を運んだ、その記録がこの二冊である。
しかし、その成果はけっして芳しいものではなかったようだ。


大江健三郎 / ヒロシマ・ノート / 岩波新書(186P)・1965年(141218−1220) 】


・内容
 広島の悲劇は過去のものではない。一九六三年夏、現地を訪れた著者の見たものは、十数年後のある日突如として死の宣告をうける被爆者たちの“悲惨と威厳”に満ちた姿であり医師たちの献身であった。著者と広島とのかかわりは深まり、その報告は人々の胸を打つ。平和の思想の人間的基盤を明らかにし、現代という時代に対決する告発の書。


大江健三郎 / 沖縄ノート / 岩波新書(228P)・1970年(141221−1223) 】


・内容
 米軍の核兵器をふくむ前進基地として、朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる持続した戦争の現場に、日本および日本人から放置されつづけてきた沖縄。そこで人びとが進めてきた苦渋にみちたたたかい。沖縄をくり返し訪れることによって、著者は、本土とは何か、日本人とは何かを見つめ、われわれにとっての戦後民主主義を根本的に問いなおす。


     


気鋭の青年作家が見た、1963−64年の広島と、1969−70年の復帰前の沖縄。初出の明記はないが、おそらく岩波の総合誌「世界」に発表したレポートをまとめた本である。戦後二十年が過ぎた同時期、ベ平連に関わっていた開高健ベトナム戦争に従軍取材し、また海外と国内各地を飛び回って旺盛にルポを書きまくっていたのも一つの刺激であったのかもしれない。直前に読んだ『自選短篇』とは別の顔の大江がここにいる。
広島にも沖縄にも何度も足を運びながら、現地で「きみは何故来たのか。何をしに来たのか?」との問いを厳しく突きつけられ(それはほとんど妄執のごとくに自らの首を締める自責だ)、うなだれたまま東京に帰ってくる。そうして結局は何人かの‘真に広島的な、沖縄的な’とみなす人物の幾冊かの文献資料を頼りに思索を重ねた悶々とした文章を書き連ねる。これならば、わざわざ出かけていくほどのこともなかったろうにと感ぜられもするのだが。

 われわれ、偶然ヒロシマをまぬがれた人間たちが、広島をもつ日本の人間、広島をもつ世界の人間、という態度を中心にすえながら人間の存在や死について考え、真にわれらの内なるヒロシマを償い、それに価値をあたえたいと希うなら、広島の人間の悲惨 → 人間全体の恢復、という公理を成立させる方向にこそ、すべての核兵器への対策を秩序だてるべきではないか。 


戦後文学の旗手、進歩的知識人としてのナイーブな分析と、広島と沖縄の現実との、埋めがたい距離、温度差。安保闘争キューバ危機、ベトナム戦争東京オリンピック大阪万博沖縄返還運動。六十年代の十年の流れのなかで、東京の書斎にじっとこもった傍観者のままではいられなかった焦燥と、その意に反しぶち当たった分厚い壁の前に無力感に包まれて茫然自失している青年の姿が浮かぶ。
日本とは、日本人とは、日本の民主主義とは…… 突破口を見いだせず、広島でも沖縄でも部外者の疎外感を味わいながら、現地に通えば通うほど袋小路に追いこまれていくかのようである。
文章は生真面目な堂々めぐりを繰り返して重複が多く、観念的にならざるをえない。酸欠状態であっぷあっぷしているのではないかと心配になるほどに息苦しい。そうして思い詰めたあげく、常に「このような日本人ではない日本人へと自分を変えることはできないのか?」という振り出しの問いに戻るしかないのだ。


それは俊才・大江健三郎にとって敗北感をともなった恥辱にも等しい苦い体験だったのではないかとすら思われるのだが、戦後作家の通過儀礼としての微かな‘勝算’をも同時に感じていたのかもしれない。文学者である自分の私的スタンスを発見する、きわめて個人的な小さな希望だったのかもしれないが。
自分はこの当時の時代状況やムードを知らないが、鶴見俊輔小田実ベ平連をはじめ、市民運動平和運動が真っ盛りだったはずである。大江健三郎が運動体組織の一員としてでなく、単独で広島と沖縄に向き合おうとしたのは何故だったのかを考えずにはいられないのだ。戦後日本人にとっての広島と沖縄。そこに明らかな体制の欺瞞の正体を見破っていながら、告発も糾弾も成功しているとは言い難いのだが、ひとまずは自分自身のこととして徹底的に考える、その良心的な姿勢はこの二冊に貫かれている。
(今から考えると、あの大江健三郎にもこんな時期があったのだと感慨深い)

 日本人から真の経験としてのヒロシマナガサキをなしくずしに剥がしとってしまおうとする動きは、これまでも意図的におこなわれてきたし、われわれ自身の内なる風化に似た自壊作用ということもある。果たして原爆体験は日本人の真の経験となったのであったか、という根本的な問いかけもまた不断にわれわれ自身にむけておこなわれつづけられねばならないであろうし、もしかしたら、すでに真の原爆経験の人間的な泉は回復しがたく涸れはじめてすらいるのかもしれない。そこで、それにつきつけるようにして、日本人とはなにか、という自分自身への問いかけがおこなわれなければならない筈であろう。


ベ平連を一つの例として挙げるとするなら、その広く開かれた大らかな平和運動のうちにはもちろん反核基地問題をも内包しているのはわかっても、なぜ「ベトナム」だったのかという疑問から自分は逃れられない。優先順位として戦後二十年の日本人がもっと身近なものとして直視すべき問題は国内にあったのではないか。大江健三郎のこの二冊に「ベ平連」という単語はついに一度も使われていなかったと思う。それは明らかに使わなかったのであり、意識的に距離を置いて避けていたはずである。当時の日本の代表的な民主主義運動にさえ欠けていた視点を、大江は見つけていたのではないか?

“ 〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と やさしい答が返ってくるためには わたしたちは わたしたちの汚れた手を きよめねばならない ”

「捨てたはずの武器をほんとうに捨て」「異国の基地を撤去せねばならない」とまっすぐに謳った栗原貞子のこの明敏な詩が備えている鋭い棘の痛みをどれだけの日本人が共有しただろう。
戦後の日本人(つまり自分も含めた「わたしたち」)が無意識的に加担している、たとえ広島、長崎、沖縄にどれほどの同情を寄せたところで、どうしようもなく自分は本土の加害側の一員であらざるをえない。自分の手はけして清潔ではありえない、この不可解な民主主義と安保体制の不条理を知覚してしまった大江健三郎の痛恨はこの二冊から生々しい迫力を持って伝わってくるのだった。
広島、長崎、沖縄の犠牲を歴史に連続して存在する自分自身のこととして考える。単純なその作業すら戦後日本人は放棄してきたのではないか。そして3.11後の現在まで、それは変わることなく続いているのではないかと思わされるのだ。


この当時の核情況に敏感だったはずの大江健三郎の目にも、同時進行していた原発建設ラッシュはまだ映っていないのだった。

大江健三郎 自選短篇


大江健三郎 自選短篇 / 岩波文庫(848P)・2014年8月(141208−1219) 】


・内容
 「奇妙な仕事」「飼育」「セヴンティーン」「「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち」など、デビュー作から中期の連作を経て後期まで、全23篇を収録。作家自選のベスト版であると同時に、本書刊行にあたり全収録作品に加筆修訂をほどこした最終定本。性・政治・祈り・赦し・救済など、大江文学の主題が燦めく、ノーベル賞作家大江健三郎のエッセンス。


     


いやあ、読みにくい本だった。かなり無理した感のある800P超のボリューム。文庫なのに片手に持って読めない。両手でしっかり押さえつけて、ほとんど頭を突っこむようにしないとページの中程は見えないから、こたつに寝そべって気楽に読むということができなかったのだ。
熱心なファンではなく、あまり読んでこなかったと思っていた大江健三郎。まとめ読みする良い機会なので少しずつ読み始めたのだが、結果的にはほとんど既読だった。正確には、読みかけてやめた作品もいくつかあったのだが。そして今回もやっぱり『雨の木(レイン・ツリー)』だけは途中で読み飛ばしたのだった。
『死者の奢り』から『火をめぐらす鳥』まで、五十年代から九十年代に発表された23の短篇。といっても、中期の連作集『雨の木』と『新しき人よ眼ざめよ』のほとんども含まれていた。


大江健三郎が『飼育』で芥川賞を受賞したのは1958(昭和33)年。前年に開高健が『裸の王様』で受賞している。自分は開高派だが、あらためて並べてみると、二人の初期作品には確かに同時代性を感じる。
『奇妙な仕事』『死者の奢り』『飼育』… 最初期の作品を続けて読んでいくと、妙なアルバイトをする学生が主人公だったり、犬の屠殺、研究用屍体の管理、結核菌患者の未成年病棟、山間地での黒人兵監禁、等々、世間から隔離された特殊な世界ばかりが描かれている。若い頃に文学とはこういうものなのかと思いながら読んだ当時の嫌悪感も蘇ってきたのだが、性倒錯やグロテスクなものへの志向は文学エリートのひ弱さを隠すためだったのではないかと思われた。
これまであまり意識したことはなかったのだが、この作家は東大の仏文卒。作品からはフランス文学との連関はあまり感じられないが、ジッドやサルトルを原文で読みこなした翻訳作業が後の彼の文体につながっていったのではないだろうか。

ブレイクにみちびかれて僕の幻視する、新時代(ニュー・エイジ)の若者としての息子らの ―それが凶々しい核の新時代であればなおさらに、傭兵どもへはっきり額をつきつけねばならぬだろうかれらの― その脇に、もうひとりの若者として、再生した僕自身が立っているようにも感じたのだ。


小説なのにひたすら自問自答を繰り返しているような独白調の文体は感情移入のしようがない。ストーリーテラーというのでもなく、名文家というのでもない。書かれていることが自分の日常生活とはまったく接点がなさそうで、すすんで読みたくなるような作品はない。したがって気に入って深く記憶した作品もなかったのだが、なのに自分が彼のほとんどの本を手にしてきたのはなぜだろう?
これは何だ?というわかりにくさや怖さ、異物感に難渋しながら向き合うこと。特に中後期の、日常の些事をいちいちブレイクやダンテを引用して展開される思索の飛躍や、読書体験に始まる連想と思考の変容に付き添ってみること。大江健三郎の心理状態につきあわされるのは愉快ではないものの、ある種の一般教養というか、精神修養と鍛錬のための必修の時間ではあったように思われるのだ。その作業があったからこそ、後の村上龍中上健次が読みやすく娯楽的にすら感じられたのではないか……?


中後期の作品には、障がいを持って生まれてきた彼の長男「イーヨー」を題材とした挿話が多い。自分の死後に残される息子の将来を慮る父親の個人的懊悩を、全人類的な魂の救済へと接続する回路を開くための基点にしようとしているかのようだ。
夕食の時間。「イーヨー、ご飯だよ」と呼んでいるのに彼は、自分はもういないのだからそっちにはいかないと頑なに拒む。思慮深い性格の次男が名前で呼びかけてみると、長男は「はい、そういたしましょう!」と元気よく応えて食卓にやって来た…… 『新しき人よ眼ざめよ』のラスト近くに書かれた輝かしいエピソードだが、(語弊があるかもしれないが)自分は以前、長男が健常に生まれてこなかったことは大江健三郎にとって誤算だったのではないかと想像したときがあった。もし大江健三郎が家庭を顧みずに文学活動に全霊を傾注していたのなら、と不遜にも考えたりしたのだが、そんなことではなかったのだと今回再読して遅まきながら気づいたのだった。
収められているすべての作品の中で最も読みやすいのは、そしてこれまで二十年以上読んできて初めてお気に入りマークを付けたのは、(これも刊行時に読んでいたはずの)イーヨーを見つめる妹を主人公にした『静かな生活』だった。
自分の「読み」の浅さに、まだまだだな…と感じざるをえないのだが、これからこういう作家の作品を読めなくなると考えるのも怖い。

アルゲリッチ 私こそ、音楽


アルゲリッチ 私こそ、音楽 / 12月14日 浜松シネマイーラ


     


マルタ・アルゲリッチは不思議なピアニストである。演奏家が身に纏う求道者的な風情を少しも感じさせず、どの曲を弾いてもその奔放な剛腕の前には解釈の余地が介在しない。再現芸術というクラシック音楽界において、「アルゲリッチ」という個性の自由な発揮が許され期待される、つまり、演奏者>作曲者が認められる稀有な存在なのだ。…… クラシックに詳しくない自分には、(グールドと並んで)彼女はロック・スターと同じ文脈で眺めることができる唯一のピアニストである。
そのアルゲリッチのレアなドキュメンタリー映画。彼女には父親がそれぞれちがい国籍もちがう三人の娘がいるのだが、三女ステファニーが撮影した七十歳になる母親の素顔が映し出されていた。


ここに描かれているのは天才音楽家アルゲリッチではなく、母・アルゲリッチ。その娘たちとの関わりは当然のことながら一般家庭とはちがっている。世界中を飛び回るマルタは不在がちで、幼少時の娘たちに(世間的な意味での)十分な愛情を注いではこなかったように見える。彼女は多弁な人ではないようで、父親のこと、家庭のことを問われても「説明は難しい」「言葉には出来ない」と言葉を濁す語りが多かったように思う。
「学校なんて行かなくていい」という母に対し、次女アニーは「私は行きたいの」と反抗したのだと笑う。過去にはきっと「自分の娘でしょ!」と怒鳴りたくなったこともあっただろう子どもたちが、今は老いかけた母親の周りを囲んで友人のごとく接している。べつべつの国に離れて暮らし、成人した彼女らが、それぞれに母・アルゲリッチを受容してきた過程には複雑な葛藤があったはずである。


ショパン・コンクール優勝時の白黒映像がはさみこまれ、タンゴの国アルゼンチン生まれのこのチャーミングな女の子が…という感慨に包まれる。あきらめる、というのではなく、受け容れるしかない。母親が世界的才能に恵まれたピアノの怪物で、全人類的財産の一人なのだと認識するのは、どんな気分だったろう。どれだけの時間が必要だったのだろう。ステファニーはマルタを「女神」であり「超自然的存在」と語っていたが、そしてそれはアルゲリッチ・ファンの観客には納得がいく言葉ではあるのだけれど、肉親をそのように表現する態度を自分には理解できない。
しかし、彼女らがそのように母親と折り合いをつけたのも「アルゲリッチの子」ゆえに可能だったのではないかとも思わされるのだ。私的アルゲリッチと公的アルゲリッチの狭間。アルゲリッチ基準。アルゲリッチ時間で流れる人生。アルゲリッチ速度の演奏。ピアノの子の、その世界に生まれついた者にしか見えない唯一の母親像が映っていて、それが風変わりに見えたのなら、変わっているのは観客側の目なのである。


少し前にNHK-BSで深夜に放送されたダニエル・バレンボイムアルゲリッチのピアノ・デュオ・コンサートを見た。手首の使い方や指の曲げ方など、二人の演奏姿勢のちがいがよくわかったのだが、いちばん興味深かったのは、演奏後にアルゲリッチが深々と腰を折ってお辞儀をしていたことだった。まったく日本式のお辞儀。別府のアルゲリッチ音楽祭でたびたび来日している彼女と日本のつながりを想像して嬉しくなったのだが、来日時の映像もこの映画には含まれていた。
舞台の袖で今日は具合が悪い、演奏なんてする気分じゃないとしきりにこぼし、ナーバスな様子のマルタ。母がステージに出て行くと、もう自分たちのところへは永遠に戻ってこないのではないかと不安がる娘。そしてコンサートが終わったときには娘は疲労困憊してぐったりしているのに、母の方は生気に満ち意気揚々と舞台を降りてくるのだった。そのコントラストにアルゲリッチ母娘の関係が凝縮されていたように思われた。
自分が「アルゲリッチ」の名を初めて記憶したのは、1980年のショパン・コンクール、イーヴォ・ポゴレリチの評価をめぐって審査員を辞退した事件によってだった。たぶんNHK「海外ウィークリー」で、『刺青の男』を出したストーンズのライブレポートが紹介されるのを期待して見ていたときだった。

SIONライブ


SION アコースティックツアー 2014 〜SION + Sakana Hosomi & Kazuhiko FUjii〜 / 12月17日 浜松窓枠】


     


年末恒例のアコースティック・ライブで今年もSIONが浜松に来てくれた。
昨年から藤井一彦(G)、細身魚(Key)との三人のユニットでの演奏に変わったのだが、キーボードが加わったことで演奏は色彩と空間的広がりを増して、よりドラマチックなものになった。
エレピ、オルガン、アコーディオン、それにギターと四種の楽器を持ち替えての魚の熱演には昨年も目を丸くしたのだったが、今年はますます深化したステージを見せてくれた。長髪、スリムジーンズ、色褪せたコンバースの小柄な、寡黙そうな蒼白い表情をした魚氏が髪を振り乱しながら鍵盤をひっかき、叩き、指を走らせる様は、古き佳きロック・スピリットを体現していて、間近で見ていて興奮を抑えられない。


名古屋と大阪でのライブの後、列島が寒波に覆われた今週、体調と喉の調子が心配されたSIONだったが、そんな心配は無用だった。「雪かもな」でさらりと始まったステージは進行につれ喉が温まるとともに、熱を帯びていく。あいかわらず趣味の悪いジプシー風の、破れたモッズコートみたいなジャケットにゴツいライダーブーツのいでたちだったが、そこにいるのは声を絞り出してがなり立てていたかつてのSIONではなかった。
当たり前だが、ただ芸能として歌っているのではないことが、届けよう、伝えようとする意思がひしひしと、しんしんと、痛いほどに伝わってきた。自作の歌にこめた想いと、実際に聴衆を前に歌うときの想いに1ミリのずれもない。今どきそういう歌や演奏に触れる機会はめったになくなってしまった。


  “ 心と体を持って生まれてきたんだから、
      疲れないやつなんていない ”


目の前にあるのはソウル・シンガーの姿だった。
ロック・ミュージシャンなんてどうせ若いときの趣味の延長をたまたま職業にすることができた一部の幸運な人種にすぎない。この二十〜三十年のあいだに、この業界に片足をつっこんで青春期のバブルを経験しながら表舞台を去っていった者たちは数知れない。SIONがいつ、どのようにスタイルとスタンスを変えたのか、それとも変える必要など端からなかったのかは自分にはわからない。ただ、それが戦略的な変化ではなく、自然と現在の姿へとゆるやかに変貌、進化を続けてきたのだろうと思う。
そして、歌手なんてものは年齢とともにブルースへ、ソウルへと近づいていくのが本来の姿だろうと自分は思っている。呻きと嘆きと囁きが歌になる― それ以外に何があろう?それ以上に追求すべき技術があるだろうか? 心優しきすべての表現者は、その人生の正直な告白ができるようになって、初めて裸の詩人になれるのだ。商品としてではなく、広告人形なんかでもなく、あらゆる仮装と化粧を剥ぎ落とした自分に厳しく向き合う姿勢が音魂となって表れてくるのだから。


毎回そうしてきたように、今年も最後列でステージを見守っていた(窓枠は小さなハコなので、それでもステージまで15mほどの距離もない)。「ハレルヤ」のリフを一彦がかき鳴らし、アコーディオンを抱えた魚がぴょんぴょん跳ねながら手拍子をうながす。黙って見ていられなくなって、歓声を上げながら最前列に突進して彼らの飛び散る汗を浴びたのだった。
歌をつくって歌い、届ける。その繰り返しのサイクルを現実の生業としていくのは、きっと苦しい戦いの連続でもあるだろう。そこに参戦できる一年にたった一回の貴重な機会なのだ。最大限の感謝と声援を送らずにはいられなかった。
二十数年前にSIONを選んだ自分の目に間違いはなかった。今なお表現を模索する戦いをやめない一人の歌手とともに年齢を重ねられる幸運に感謝しつつ、自分にとってのささやかな奇跡と秘かな誇りを新たにする夜でもあった。
その声でしか歌えない歌がある。その声だからこそ歌える歌がある。結局は、誰しもがそのように生き、歌うしかないのではないか。SIONのファンでいて良かった。これまでも、これからも……
SION、魚、一彦、ありがとう! 来年もまたここで!

葉室麟、伊東潤 / 決戦!関ヶ原


葉室麟伊東潤 / 決戦!関ヶ原 / 講談社(308P)・2014年11月(141210−1213) 】


・内容
 慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)。天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いが勃発。
―なぜ、勝てたのか― 東軍…伊東潤(徳川家康)/天野純希(織田有楽斎)/吉川永青(可児才蔵)
―負ける戦だったのか― 西軍…葉室麟(石田三成)/上田秀人(宇喜多秀家)/矢野隆(島津義弘)
そして、両軍の運命を握る男― 冲方丁(小早川秀秋) 
当代の人気作家7人が参陣。日本史上最大の決戦を、男たちが熱く描いた「競作長編」。


     


これほど楽しく読める「関ヶ原」は他にないだろう。1600年、徳川家康石田三成、小早川の寝返り。受験勉強用に記憶した単語程度の知識しか持たない自分にも、どういう経緯でこの合戦が起こり、推移し、決着したのか、目に映したように理解することができた。
秀吉亡き後の日本の命運を決める一戦。東西両軍合わせて十五万もの兵が集結した史上最大の合戦にそれぞれの思惑を秘めて臨んだ七人の武将を七人の作家が描く。大将格の家康を伊東潤、光成を葉室麟に任せ、配下の将を中堅若手が担うという布陣。歴史上の東西対抗、いわばオールスター戦を、オールスター作家陣がそれぞれバラエティに富む手腕で描くという、ありそうでなかった、そして面白くないはずがない「関ヶ原」である。

 「あわわ……」
 はじまった。はじまってしまった。まずは何をすればいいのか。軍を前に進めるべきか、それともこの場にとどまるべきか。昔読んだ兵法書には、何と書いてあっただろう。駄目だ、まったく思い出せない。私の頭はすっかり混乱し、右手に握る采配は小刻みに震えていた。


当然のことながら、一人の作家が特定の人物を主人公に書く歴史上の大事件は、すでに書きつくされたものであっても、どうしても説明が多く長くなりがちだ。二度の朝鮮出兵と秀吉の死からここに至る諜略戦や武家間の複雑な絡まりを書いていくと短篇ではとても収まりがつかない。読む方も追いていくのに骨が折れる。それを七人の目で七つの短篇にして組み上げた。これはまず企画の勝利である。
特筆すべきはすべて書き下ろしであること。この本のために‘出陣’する作家をどのように東西に組み分け、担当武将が決められたのだろう。それぞれ好き勝手に書いてしまえば細部に齟齬が出るかもしれない。たとえば、朝鮮出兵の労を労い光成が催した茶会での福島正則の態度や東軍の先手抜け駆けを巡る諍いなど、伏線として各話に共通して扱われるエピソードに大きなずれはなかったと思う。
もちろん作家間にはライバル心、特に‘大将格’の葉室麟伊東潤への対抗心もあっただろう。そのようなことを想像しながら読むのも楽しかったのだが、これは七本の原稿をただ並べただけでは成り立たなかったはずだ。編集者の熱意とアイデアの賜物だろう。


それぞれの歴史作家の文体や特徴を知っているわけではないが、いずれも甲乙付けがたい出来と感じた。
第一話、つまり先鋒、一番槍を任されたのは伊東潤の「人を致して」。伊東さんが得意とするのは鎌倉〜戦国期の東国の小大名であり、天下人その人を書く作風ではない。その彼が家康を描く。オールスター戦の祭のようなこの場を粋に感じながら楽しんでいるのが感じられ、その筆致には彼らしい剛腕ぶりがしっかり表れていて、こちらも嬉しくなった。
異色だったのは天野純希の「有楽斎の城」。信長の弟でありながら武功はなく茶道楽に浸っていた織田長益が、場違いの大戦に徳川方の一将として参加しながら自分の来し方を振り返る。ただ一話、この作品だけが一人称で書かれているのも新鮮だった。
味方の苦戦を目の当たりにしながら兵を動かそうとしない島津義弘を書いた矢野隆「丸に十文字」も印象に残る。光成への反感から陣を出ようとしない前半はひたすら厭戦気分のぼやき節が続くのだが後半は急転一気、すでに西軍は潰走し帰趨の決した戦場を中央突破して家康の本陣に殺到せんと熱く血をたぎらせるコントラストが鮮やかだった。

 ― 思えば、他人に致されてばかりの生涯だったな。
 信玄、信長、秀吉、そして石田三成が、己よりも頭がいいことは間違いない。しかし今度ばかりは、致されてしまえば、すべてを失うことになる。
 ― もう、わしは致されぬぞ。
 そのためには、光成の上を行く手札を用意せねばならない。家康の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。


この合戦の‘影の主役’小早川秀秋を書くのは冲方丁「真紅の米」。『天地明察』『光圀伝』で時代小説に転身した彼の初めて合戦ものということでも注目して読んだ。現代に常識のように定着している小早川の‘虚け’‘裏切り者’などの汚名を慎重に避けて、若干十九歳ながらしたたかに難局を切り抜けた青年像を瑞々しく描いていて好感を持った。
この秀秋像が示すとおり、全体的に、豊臣家への忠誠や恩顧がありながら光成に与することの是非に揺れていた西軍が一枚岩ではありえなかった様がよく伝わってきたし、そこに若手作家の共感や現代的解釈が加えられ、若々しく清新な「関ヶ原」になっていたと思う。
歴史上の出来事の中でもよく知られていると思われる関ヶ原だが、参戦したそれぞれにそれぞれの関ヶ原があったことをまざまざと感じさせられる。結果だけを見れば大きな流れの中で家康側の圧勝に終わった戦だが、見る者によって解釈は違うことはあるだろうし、それ以上に参戦していた武将にとっての感じ方は千差万別なのである。NHK大河的に主人公を偶像化する大仰な押しつけがましさはないし、それは個人の長篇作品からは決して生じない感慨だろうと思う。
最後に自分なりの独断を少し加えると、これは1600年にタイムトラベルして取材してきた七人の作家によるドキュメンタリーで、読者はタイムマシン物SFとして楽しむこともできる「関ヶ原」なのである。本年ベストの一冊!



  

アゴタ・クリストフ / 悪童日記


悪童日記』三部作を読んだ。映画鑑賞に合わせて読むつもりでいたのだが、浜松のミニシアターに来るのは来年なので先に読んでしまった。


アゴタ・クリストフ / 悪童日記 / ハヤカワepi文庫(301P)・2001年(141202−1207) 】

LE GRAND CAHIER by Agota Kristof 1986
訳:堀茂樹


・内容
 戦争が激しさを増し、双子の「ぼくら」は、小さな町に住むおばあちゃんのもとへ疎開した。その日から、ぼくらの過酷な日々が始まった。人間の醜さや哀しさ、世の不条理―非情な現実を目にするたびに、ぼくらはそれを克明に日記にしるす。戦争が暗い影を落とすなか、ぼくらはしたたかに生き抜いていく。人間の真実をえぐる圧倒的筆力で読書界に感動の嵐を巻き起こした、ハンガリー生まれの女性亡命作家の衝撃の処女作。


     


舞台は第二次大戦時のドイツとソ連に挟まれた東欧の小国。映画予告編や解説文から暗い陰惨な物語を予想していたのだが、意外に読み心地は悪くなかった(良かったわけではない)。国境近くにある祖母の家に疎開した双子の少年が、戦争に巻きこまれ情勢に翻弄される大人たちを出し抜いて特異な成長を遂げる。
外見は早熟で残忍な「アンファンテリブル(恐るべき子どもたち)」の物語。子どもは純真無垢なものというこちらの思いこみを覆す少年の不気味な生態が日記形式で綴られているのだが、たくましく、ふてぶてしく生きざるを得なかった戦火の子どもたち、特に身寄りを亡くした孤児たちの姿は、これまでにも多くの作品に描かれてきたから、ことさらに驚くほどのものでもない。
ルールのない、何でもありの状況下の子どもにとっては、戦場でさえ‘遊び場’のようなものになってしまうのかもしれない。年端のいかない子どもが大人びた口調で喋るのは滑稽で不快なものだが、学校に行かず未成年者の自覚を持たない彼らにとって、それは自然なことであり、精神の歪形と決めつけるのは早計かもしれない。


祖母に「牝犬の子めが」と罵倒される双子の二人はまさしく一心同体で、常に行動を共にしている。肉体を鍛え、精神を冷たく鍛えるために、乞食の練習をし、不具者になる練習をし、大人たちから金を巻き上げる方法を独学で身につけていく。
この作品の面白さは、二人で一冊の日記帳に書いているという点で、固有名詞を隠して「ぼくら」を一人称としている。二人なのに人格は一つ。それぞれの個性や意見の違いは周到に排除され、「事実の忠実な描写」に徹して感情は書かないというルールで記されていて、二重人格性はまったくない。
もし、いっさいの感情を取り去って日常を記録したなら、われわれの日常もこれと似た殺伐としたものになるのではないかと思わされる。しかし、見たもの聞いたものだけを記録するために自分の目や耳を単純なフィルターとして機能させようとしても、それらは完全に自我から自由な装置たりうるだろうか? 特異な環境で特殊な才能を身につけた子どもたちという錯覚をさせられているのではないかとの疑いを拭えないまま読んでいった。
 

 「もっと、もっと、おばあちゃん! ほら見て、聖書に書かれているとおり、ぼくら、もう一方の頬も差し出すよ。こっちの頬もぶって、おばあちゃん」
 おばあちゃんは言い返してくる。
 「おまえたちなんか、その聖書だの頬だのといっしょに、悪魔に攫われてしまえ!」


続編の二冊、『二人の証拠』と『第三の嘘』は一作目のラストシーンから後の二人(固有名詞が与えられている)の人生が明かされる。祖母の家にとどまったリュカと、国境を越えたクラウスのそれぞれの後日談である。
生き別れた兄弟がどんな形で再会を果たすのか期待して読んでいったのだが、二人の回想は食い違い、記憶はすれ違う。名前が入れ替わったり、亡くなっていたはずの両親が生きていたり、さらには兄弟の存在すら否定したりと、あの『悪童日記』は何だったのか?という内容で混乱させられる。
少年が記していたと覚しき古いテキストだけが実在していて、そこに書かれていることが事実であったなら、互いの存在を否認することが自己防衛だったのかもしれない。しかし、共通の登場人物などからこちらが知っている彼らの過去と微妙に符合する部分もあるから、やはりこの続篇の記述にも何らかの意図的操作が行われているに違いないと考えざるをえない。


強烈な個性を発揮した二人が生まれついての本物の「悪童」であったなら、終戦後の行く末はおのずと知れよう。だが成人後、リュカは書店を買い取って自分に似た境遇の子どもを我が子同然に愛情を注いで育てようとしていたし、クラウスは異国で執筆作業を続けていた。
この二人が本当に一心同体の双子であったのなら、個々に別れて生きることが可能だったのかと思うと、再び『悪童日記』のあまりに唐突な最後に立ち戻らねばならないし、なぜあのテキストが書かれたのかを再考せざるを得なくなる。そして、少年が感情を捨てねばならなかった理由を思い巡らすことになるのだ。
戦争の恐怖と家族離散の不安の中で彼、もしくは彼らは「非人間性」を自らに課さねばならなかったのではないか。孤独と絶望に耐えるために、もう一人の自分(自分たち)を必要としたのではないか。
何一つとして確証はないのだが、時間とともに記憶はぼやけていくし、一つの事実が二人の記憶の中で違うものに変質して理解されなおすこともあるだろう。戦争は国も民族も、家族も友人関係も引き裂いた。かつて固く結びついていた兄弟さえ分断したかもしれない。そのような事実は実際に無数にあったのだし、実在の怪しさも含め、この二人には著者の失われた祖国観の象徴的なある部分が投影されていたのかもしれない。

エスパルス2014:34節 / 残留決定


【 12月6日 / Jリーグ最終節 : 清水 0-0 甲府 / ‘残留決定’ 】


屈辱的な試合だった。シーズン最終戦、チケット完売のホームゲームで中盤不在の蹴るだけの、身体を張るだけの、残り時間を気にしながらのサッカーを見せられるとは……。


          
          


試合中はいろいろと言いたいことがあったけれど、試合終了直後の選手たちの姿を見て、何も言わないことにした。見ているわれわれなんかより彼らはずっと苦しく悔しかったはずだ。


          
          
          
          
          
          
          



なんとか残留を決めて胸をなでおろしたのだが、フラストレーションは溜まったまま。溌剌としたサッカーが見たくて、今日はユースの試合を観てきた。こちらもプレミアリーグの最終節、相手はすでに優勝を決めている柏ユース。柏の方が見るからに体格が大きく、さすがに良く鍛えられている印象だったが、清水も前からプレスを仕掛けて好機をつくる。
後半、水谷拓磨が出てきてガラリとリズムが変わった。深沢君のヘッドで追いつき、最後には北川君も出てきて柏を追いつめた。


          
          



このメンバーでサッカーをやるのはこれが最後。そんな試合は笑顔で終わろうではないか。個人的には早く来シーズンの新エスパルスが見たい。どういうメンバーの、どんなチームに生まれ変わるのか。もう今からわくわくしている。