松本博文 / ルポ 電王戦


松本博文 / ルポ 電王戦 人間vs.コンピュータの真実 / NHK出版新書(256P)・2014年6月 】


     


・内容
 プロ将棋棋士とコンピュータが真剣勝負を繰り広げる電王戦シリーズ。今年おこなわれた第3回大会は、プロ棋士側の1勝4敗に終わった。かつてはルールすら守れなかったコンピュータは、いかにしてプロ棋士を凌駕したのか? そして、現役のトップ棋士たちはこの結果に何を思うのか―? 日本中を熱狂の渦に巻き込んだ電王戦の裏には、どんなドラマが潜んでいたのか。開発者や棋士たちの素顔を描きながら、戦いの全貌を伝える迫真のルポルタージュ。将棋とは? 知性とは? 人間とは? 「21世紀の文学」とも評された決戦の記録。


ふだん将棋に興味はないし、電王戦のネット生中継も一度も見たことはないが、NHKドキュメンタリーだけは毎回観ている。読書人としては頭の片隅に『盤上の夜』があり、人間と人工知能の確執をテーマにした名作SFの数々があって、自分にとってこの電王戦はただの将棋イベントにとどまらない、来るべき未来社会の一端をかいま見せてくれるのではという期待感がある。
米長邦雄・永世棋聖ボンクラーズに敗れた2012年の第一回電王戦から五対五の団体戦になった昨年の第二回、そして今年。わずか三回にしてすでに将棋ソフトの優勢は決定的なものになり、ファンからは最上位棋士の参戦が熱望されている。
本書はコンピュータ将棋にも詳しい観戦記者による電王戦ドキュメント。電王戦の歴史を縦軸に、短期間に長足の進化を遂げたソフト開発者と実際に対局したプロ棋士たちの素顔と率直なコメントを交えながら、棋士とソフトがいかに電王戦をつくってきたかをあぶり出している。「ルポ」というよりはダイジェスト的な読みやすさで、まったく退屈することなく楽しめた。そういえば『盤上の夜』も、囲碁観戦記者の目を通して語られる物語だった。


人間VSコンピュータは見方を変えれば「古典」「伝統」と「新種(あるいは変異種)」「革新」の衝突、本来別種であるものがこすれあう摩擦ともいえる。たとえば日本のお家芸だった柔道が海外で「ジュードー」として日本のそれとは微妙に違うものに変わっていき、昨今の国際舞台では本家がなかなか勝てなくなった、という流れを想起する。ルールとフォーマットはそのままでも環境や出自が違えば、べつの競技に変態していくということがあるのだ。
人工知能に対する態度にも世代間で温度差があるに違いない。物心ついたときに携帯電話やゲーム機に慣れ親しんで育ち、将棋も数あるゲームソフトのうちの一つにすぎない世代にとっては、日本人が数百年の歴史のうちに形作ってきた将棋の正当な文化に対する特別な敬意は薄い、というか知りようがないだろう。そういう感受性の変化は、憲法原発に関するオールドとヤングの意識の違いとも共通しているのに違いない。だから電王戦には将棋文化に対する世代間闘争の側面もあるのだ。


「進化」― 人間と電脳、双方の進化が何をもたらすのか。いきつくところは人間側の脳のコンピュータ化なのかもしれない。数十年後にはウェアラブル端末を装着した人間、あるいは肉体の一部をAI化して自脳と電脳を自在に操るハイブリッド人種が将棋ロボットと互角の戦いを演じているかもしれない。盤上の戦いが可視化され、仮想空間で大規模な集団戦を体験できるようになるかもしれない。
否応もなく人類代表という重圧を担う棋士と、プレッシャーとは無縁の人工知能。あらゆる競技がそうであるように、おそらく将棋だって究極的にはメンタルの勝負なのだろうということは想像がつく。しかし、計算機には体調不良も集中力の欠如もなく、欲がなければ動揺もしないし負ける恐怖心もない。負けるにしてもせめて美しい棋譜を残したいなどという棋士のプライドもない。その一点だけでも人間には絶対的に大きなハンデがある。
もう少し時間が経って、人間がソフトに挑戦するという構図が定着すれば、棋士に余分なプレッシャーがなくなって案外べつの結果が出るのではないかという気もする。
いうまでもなくコンピュータプログラムの改良進化のスピードは人間の能力向上の努力よりも圧倒的に早い。観戦者はその技術にばかり目を奪われがちだが、しかし、人間の脳だって進化するのだ。これまでの定石では通用しない、自分が学んできた伝統的将棋とは違うのだと腹をくくったとき、人間棋士であるのをかなぐり捨てて、逆にコンピュータを混乱させ、動揺させる術を得た棋士が電王戦に臨めば、形成逆転の可能性はきっとあるだろう。


この人間界のごく一部であるプロ棋士という人たちは、その存在自体が希少種であり、一般凡人から見ればまことにSFっぽく見える。かつての名局はもちろんのこと、何千という棋譜を記憶している。一度に何十人かを相手に指すことができる。盤駒を使わず、口頭だけで対局するなんて芸当までやってのける。何より、子どもに将棋の面白さと奥深さを伝え教えることができる。たとえコンピュータに敗れはしても、そのような能力(脳力)を備えた棋士の存在意義はいささかも薄れることはないだろう。近い将来、登場するであろうコンピュータ将棋育ちの棋士からは、もしかしたらそういう将棋芸人的な、指導者的な能力・魅力は消えてしまうのではないかと危惧するのだが、だとしたら少々寂しい。
電王戦が突きつけるのは、これまでに人類が直面したことのない現実のように見えるけれど、と同時に、昔から変わらない永遠の問いのようでもある。将棋とは何か? 棋士とは何か? 将棋ソフトに負けるプロ棋士の存在意義とは? つきつめていけば、そうした営為のすべてが結局最後は「人間とは何か?」という問いへとつながっていくのだから。
個人的には羽生善治さんや渡辺明さんが電王戦に参加する必要はないと思っている。人間同士で最強なのだからコンピュータ相手にも強いだろうというのは、いかにも人間的な短絡ではないか。