柴崎友香 / 春の庭


柴崎友香 / 春の庭 / 文藝春秋(141P)・2014年7月(150103) 】


・内容
 離婚したばかりの元美容師・太郎は、世田谷にある取り壊し寸前の古いアパートに引っ越してきた。あるとき、同じアパートに住む女が、塀を乗り越え、隣の家の敷地に侵入しようとしているのを目撃する。注意しようと呼び止めたところ、太郎は女から意外な動機を聞かされる…… 「街、路地、そして人々の暮らしが匂いをもって立体的に浮かび上がってくる」(宮本輝氏)など、選考委員の絶賛を浴びたみずみずしい芥川賞受賞作。


     


1月3日の夕方、数時間で読了。大江健三郎の後に読むものはいつでもそうだが、とても読みやすく感じた(笑)。
以前読んだ『わたしがいなかった街で』に比べると小粒というか、すっきりとそつなくまとめてあって、‘いかにも芥川賞受賞作’というたたずまい。あれもこれも書こうと苦心するより、ひたすら引き算で削って削って、残りをポンと投げ出したような…。
都市生活者の日常が写実的な視線で淡々と描かれているのだが、三十代と思しき独身男性である主人公の生活よりも、彼の通勤経路や自宅アパート周辺の地理、部屋の間取りなどが妙に几帳面に細かく書かれている。
老朽アパートと新築の高層ビルマンション、高級住宅が混在する街は、近所ではあってもどんな人物が住んでいるのかわからない。整然とした街並みに見えても実は空き家も空き部屋も多く、頻繁に入居と転出が繰り返されている。地図上ではぎっしりと住居がひしめいている都会の街だが、実は虫食い状の空洞があちこちにある。そんなイメージから始まる。


帯文には「隣の女に誘われた冒険」なんて何やらいわくありげに書いてあるのだが、たいしたドラマは起きない。事件も事故も災害も犯罪もなく、日常生活の中のちょっとした出来事が重ねられていくだけだ。ちょっとした起伏はあるけれど、ストーリーとして盛り上がるのでもない。なので感想を書くのは難しい。今この記事を書こうとしていて、下手すると読むのに要した以上の時間がかかってしまうのではないかと、少し焦っているくらいだ。
何となくだが、あやふやな「不確かさ」だけが印象に残っている。主人公の彼は何を目標に、どんな将来の展望を思い描いて生きているのか。なぜそこに暮らし働いているのか。はっきりとした根拠は示されず、あいまいだ。彼は人づきあいは苦手ではなさそうだが、たいていおざなりな態度で済ます、体温の低そうな、根無し草のようにも見える。

 空き家であるときは停止していた時間が、動いていた。家の中に誰もいなかった一週間前と、建物自体はまったく同じなのに、その場所の気配や色合いが一変していた。人がその中で生活しているというだけでなく、急に、家自体が生き返ったみたいだった。写真の中と同じくいつまでも眺めていられると思い込んでいた家が、意思をもって動き始めたように感じた。大げさかもしれないが、人形が人間になったような生々しさがあった。


数少ない手がかりというか一つの基準めいた話題として、「ニール・ヤングの世代」、つまり終戦の頃に生まれ現在六〜七十歳代くらいの、主人公の親世代が持ち出されている。
その世代が大人になって家庭を持ち子どもを育てる間に社会はどんどん多様化し、家族・コミュニティの崩壊や人間関係の変質が懸念されたが、現実にそれらは進んだ。プライバシーを尊重する反面、他人に干渉するのを避け、自分に干渉されるのを嫌うようになった。責任や義務や、地域の伝統的慣習や家族内の決まりごとなどが、けして軽んじるつもりはなかったかもしれないが、忘れられていった。そうして「常態」というものが一世代前とは確実に変わってしまった。
その子ども世代である主人公に自分は特に違和感も反感も覚えなかったし、共感というほどではないにしても、親しい感覚はあった。不確かさは必ずしも暗い影ではないのだ。


われわれは一見ぼんやりと時を過ごしているように見えるのだが、本当にそうだろうか? あちこちでしきりと「つながろう」キャンペーンが目につく昨今だが、そんなに自分たちは孤立し断絶しているのだろうか。だとしたら、何から…?
著者は最後にちょっとした仕掛けを用意していて、平板な作品のコントラストを上げて、希薄な人間関係の修復に成功している。その効果を高めるために、本来ならば小説を書くときに当たり前の人物造形と情報をあえて省き、主人公をあやふやな、足下の覚束ない没個性のように見せかけていたのかもしれない。
そう想像した最大の根拠は、著者がこの主人公に「太郎」という ―ありふれているようで、けしてありふれてはいない― 名前を与えているからである。


錆びるより燃え尽きたい― 朋友クレージーホースを従えた2014年のニール・ヤング69歳 “Keep On Rockin' In The Free World”。そういえば彼の長男も先天性の障がいを持って生まれてきたのだった。