多和田葉子 / 献灯使


多和田葉子 / 献灯使 / 講談社(274P)・2014年10月(150105-0108) 】


・内容
 大災厄に見舞われた後、外来語も自動車もインターネットも無くなった鎖国状態の日本で、死を奪われた世代の老人・義郎には、体が弱く美しい曾孫・無名をめぐる心配事が尽きない。やがて少年となった無名は「献灯使」として海外へ旅立つ運命に……。圧倒的な言葉の力で夢幻能のように描かれる超現実の日本。人間中心主義や進化の意味を問う、未曾有の傑作近未来小説。

講談社BOOK倶楽部HP → 献灯使 多和田葉子


     


160Pほどの中篇表題作の他に、四本の短篇が収められた作品集。いずれも「あれから」すっかり変わってしまった日本が舞台で、深刻なテーマと重苦しいトーンは共通している。しかし随所にこの作家らしい言葉へのこだわりを感じる文が散りばめられていて、しばしばストーリーを忘れて笑ってしまった。
『韋駄天どこまでも』は華道教室で知り合った二人の女性が大地震に遭遇し、一緒に逃げることになる。避難所へと移動するバスの席に並んで縮こまった二人は、互いの文字を刺激しあい、縦棒と横棒で(!)情交を始める…… どういうつもりでこんなものを!?とあ然としたのだが、そのシュールさには何だか筒井康隆みたいな趣きがあり、文字遊びや思いついた新造語を書きつける勢いには有無を言わせぬパワーが漲っていて圧倒された。

 「無名、待っていろ、お前が自分の歯では切り刻めない食物繊維のジャングルを、曾おじいちゃんが代わりに切り刻んで命への道をひらいてやるから。俺は無名の歯だ。無名、太陽をどんどん体内に取り入れろ。」


並びとしては三番目に収められている掌篇『不死の鳥』の世界観を継いで書かれたメインの『献灯使』は何度か再読。
百歳を越えて壮健な老作家・義郎が小学生の未熟な曾孫・無名(むめい)と暮らしている。環境の激変で老人の体力は衰えなくなった一方、新しく生まれてくる子どもたちはみな虚弱体質で流動食しか口にできず、大人の介護なしでは生きられない。なぜ親ではなく三世代も上の曾祖父が子の面倒を見ているのかという部分にこそ、この作品の胆はあるのだった。
義郎の目には無名は軟体動物か鳥類のような、自分とは別の生き物のように映っている。自分は健康なまま生きながらえるとして、自力では栄養を摂取することすらままならない曾孫が生きのびるのは至難だろう。大人より子どもの方が早く死んでいくという不条理。人間の生態を矛盾させた過ちに対する怒りと悲しみを抱えたまま、義郎は無名を見守っている。自分が生きてきた時代、社会、環境を、次世代に受け継がせることができないという失敗を、今われわれは行っている、という著者の強い危機意識を痛いほど感じながら読んだのだった。


しかし一方、無名の方は自分の身体が脆弱であることを気に病む様子はなく、年齢相応に天真爛漫な子どもといってもよい。小学校卒業時には総白髪になり、歩けなくなっているにもかかわらず、その変化を従容していてまったく前途を悲観することがない。この世代には環境に順応するための本能的な知恵が具わっていて、義郎の世代には想像もつかなかった独自の文明を生み出していくのではないか。汚れた文明が終わって無垢な新しい文明が始まるのかもしれないという微かな希望がほのめかされる。
現代文明が行きづまったとき(あるいは終わるとき)、それまでの成長一辺倒の価値観では量れない現象がきっと表れてくる。肉体的には退行しているように見える無名たちが、実は逆説的な強さを持って変異していくというアンチテーゼ。この作品は表面的にはもちろん3.11後に進行したディストピア的世界観を想像させるのだが、それは義郎=現代のわれわれ読者の視点に立ってのものである。脆く儚げな無名たちが、たとえミミズや虫を食うことになろうが、賢くたくましく生きていくのを祈らずにいられない。

 「ごめん、まずいね」
と後悔のかゆさに耐えきれず頭皮をポリポリ掻きながら無名に謝ると、無名が不思議そうな顔をして、
 「まずいとか、美味しいとかあんまり気にしないんだ、僕たち」
と答えた。義郎は自分の浅はかさを思わぬ方角から指摘され、恥ずかしさに息がつまった。


ここに描かれているのは、ただ大地震原発事故だけが原因でもたらされたものではない。気候変動や国際的孤立を招く外交政策の失敗や、超高齢化と少子化が同時進行する社会、食糧自給自足率の低さ、秘密保護法や憲法軽視を許す、まさしく現代日本の諸相を取り込んで大胆にデフォルメした世界のようである。
なぜこうなってしまったのかという地点で足踏みしたまま風化していくのを黙って見ていられない。風評被害や被災者感情への配慮というもっともらしい理由で自己規制する空気がこの社会から想像力を奪いつつあるのではないか。書きかけの歴史小説を自ら破棄してしまった義郎に、自制という抑圧を招きつつある現代日本の作家たちへの叱咤が含まれていたと思う。
多和田葉子さんがこのような作品を書くとは意外な気もしたのだが、ドイツに暮らしているからこそ、余計によく見える部分もあったのかもしれない。絶対に想像力を飼い殺しにはしない。言論にたずさわる者としての、表現者としての、彼女の堂々たる態度に大いに感動した。
堀江栞さんの表紙絵と挿画はインスピレーションをかき立てる。本文印刷も美しく、重みのあるつくりの大切に持っていたい本になっている。年は変わったが、まごう方なき2014年ベストの一冊である。