レイ・ブラッドベリ / 瞬きよりも速く


レイ・ブラッドベリ / 瞬きよりも速く [新装版] / ハヤカワ文庫SF (430P) ・ 2012年 9月(120929−1002)】

Quicker Than The Eye by Ray Bradbury 1996
訳:伊藤典夫村上博基・風間賢二


レイ・ブラッドベリ / 太陽の黄金の林檎 [新装版]/ ハヤカワ文庫SF (397P) ・ 2012年 9月(121003−1005)】

The Golden Apples of the Sun by Ray Bradbury 1952,53
訳:小笠原豊樹


          


SFマガジン10月号は今年六月に旅立った巨匠レイ・ブラッドベリ追悼特集。同時に既刊の短篇集二冊が新装版として再リリースされた。
合わせて43篇、多様多彩なブラッドベリ・マジックを堪能できるのだが、この二冊は同じようで同じではない。『太陽の黄金(きん)の林檎』は1950年代初め、傑作を連発していた若きブラッドベリのカラフルなおもちゃ箱のよう。一方、四十年のキャリアを重ねたベテラン作家1996年の作品集『瞬き(まばたき)よりも速く』はノスタルジーとメランコリーに彩られた思い出のアルバムみたいだ。
古代から未来までアイデアは尽きることなく、その感性は瑞々しくきらめくばかりだった初期。老境に入って着想の妙よりも文章に熟練といっそうの詩情を感じさせるようになった後期。一篇一篇を楽しめるのは無論だが、ブラッドベリの四十年の変化を感じとることもできる。
しかし、どちらの本にもイリノイ州グリーンタウンのダグラス・スポールディング少年がいて、やはりブラッドベリブラッドベリなのだとも感じさせられるのだ。

 その声は火星から発し、日の出も日没もない場所、常闇のなかに太陽が輝いている場所を通過して、地球に届いたのである。そして火星と地球の中間のどこかに、何か電波を妨害するものがあるらしかった。それは流星雨のようなものかもしれない。いずれにせよ、些細なことばや、重要性をもたぬことばは洗い落とされてしまい、男の声はただ一つのことばを語った。


『太陽の黄金の林檎』のオープニングを飾るのは、あの哀切な傑作。「霧笛」は無敵の怪獣メルヘン。何度読んでも胸をしめつけられ、条件反射的に目も鼻も溶けかかる。上田早夕里『魚舟・獣舟』のルーツかも?、と思ったり。
火星年代記』の一部でもある奇蹟の名篇「荒野」はここにも収められていた。もう何十回も読み返しているが、やっぱりいい。まともな神経でこんなものが書けるだろうか。もしかして、鼻にきついのを一服決めて書いたのではなかろうかと不謹慎な想像をたくましくしてしまうのだが(彼も世代的には‘ビート・ジェネレーション’だ)、それぐらい一字一句すべてが珠玉の絶品。自分にとって“SFの抒情詩人”の冠はこの作品を指す。
アリゾナの砂漠地帯を旅する夫婦が雨宿りのために発電所で一夜を明かす。ただそれだけの「発電所」。しかし、妻の内面に起こる劇的変化に鳥肌が立つ。ドラマらしいドラマがなくとも別人に生まれ変わらせてしまう手腕にこそ、ブラッドベリの真骨頂はあるのかと思う。



『瞬きよりも速く』は七十歳代の作家が変幻自在に日常と非日常を描き分けた作品が目立つ。異世界的発想や特殊な設定に頼らずとも文章力だけでいかようにも物語をドライブできる至芸を味わえる。
夏のある一日の体験を通して17歳の少女が密やかな変貌をとげる「石蹴り遊び」は、『黄金の林檎』の「四月の魔女」に似ているが、こちらでは魔術師を使わなくても鮮やかにイリュージョンを起こす。
未来や宇宙を舞台にした作品はない。書かれているのはどれも市井の人々の小さなドラマで、登場人物は身近な人物ばかりだ。「芝生で泣いている女」、「忘れじのサーシャ」、「魔女の扉」も印象深かったが、極めつけは何と言っても「交歓」! 二十年ぶりに故郷に戻ってきた青年。友人知人はみないなくなっていて街もすっかり様変わりしてしまった。彼は子どものころ通いつめた図書館にやって来る。本は、図書館は、故郷に帰る永遠のタイムマシンだった…… 魔法は解けてはいなかったのである。

 テーブルの上には、ストーンヘンジのように立てた本の円環がある。彼女がその内側にもうひとつの円環をつくりはじめると、孤独な栄光につつまれ、彼は名前をひとつひとつ唱えていった。それぞれの書名と、作者の名前と、思い出のなかの友人の名前。遠い昔、向かいの席にすわり、名場面を小声で、ときにはささやき声で読んでくれた友人たち。だが読み方がうまいので、「静かに」とか「うるさい」とか「しーっ」の声はどこからも起こらなかった。


70年代以降のブラッドベリは魔法使いではなくなったという人がいる。それは読む側の魔法が解けてしまったからだ。作家の神通力が衰えたのではなく、デジタルな現実に打ちひしがれたあなたの感受性がすり減っただけのことである。
初期のブラッドベリが手を換え品を換えて、それまで見たことのない光景を次々に現出してみせたのに対し、後期の彼は魔法の種を読者の胸に一粒だけ投げる。水をやるのはあんただよと言わんばかりに。魔法は誰にでも効くわけではない。現像液に浸されて、ぼんやりとゆっくりと像を結ぶのだ。
才気煥発なエネルギッシュなパフォーマンスをみせていた指揮者が年齢を重ね、やがてより深い音楽表現に到達してマエストロになる。作家にも同じことがいえるのではないか。後期ブラッドベリの魔法の射程は広さよりも深さに長い。デジカメには写せない、フィルムにしか写らない魔法だとしたら、読者は自らの心に暗室を持たねばならない。そうすれば『瞬きよりも速く』は一人の作家と共犯関係の、同盟の密約を結ぶ書物になるのである。
90年代のブラッドベリがこれほど充実しているとは思わなかった。これからも彼の作品を愉しむために、「感電するほどの喜び」を歌うために、現実にかまけてばかりではいられない。