アリス・マンロー / 愛の深まり


アリス・マンロー / 愛の深まり / 渓流社(430P)・2014年11月(150109-0113) 】

The Progress of Love by Alice Munro 1986
訳:栩木玲子


・内容
 短篇の名手が、ふとした出来事による心の揺らぎを静かにあぶりだす作品集。ノーベル文学賞受賞作家が、鋭い観察眼としなやかな感性で描く、さまざまな「愛」のかたち。日常の中の生と性、死と老い、すれ違う愛、心の深淵…。表題作「愛の深まり」ほか、マンロー作品のエッセンスが詰まった十一篇。


     


アリス・マンローといえば小竹由美子さん訳の新潮クレストですっかりおなじみ。昨12月にも同レーベルより『善き女の愛』が刊行されたばかりだが、その直前に出ていた渓流社の新刊が図書館にあったので借りてきた。
こちらの訳者は栩木(とちぎ)玲子さん。名字に見覚えがあったので「もしや?」と思い調べてみると、W.トレヴァーなどのアイルランドものの翻訳者・栩木伸明氏の奥さまだった。なるほど。アイルランドトレヴァーと、カナダのマンロー。その日本語翻訳者がご夫婦であるとは偶然ではあるまい。
ノーベル賞受賞で日本では必ず‘円熟’や‘珠玉’という言葉を冠して語られているマンローだが、三十年前にしてすでにその老成の作風が確立されていたことを思い知らされた。ハズレなしの全十一篇。一日二話ずつ読んだ。

 私をお運びください。お運びください。正しい心へ。お願いします。今すぐに。どうかお願いします。
 あとになって彼女は思った。二時間もかからないあの電車の旅で学んだのは、祈りが通じることもある、ということだった。必死の祈りは聞き届けられる。祈りとはなにか。それに対する応答とはなにか、それまでの彼女はまったく分かっていなかった。それが今、なにかが彼女の中に降り、からみついた。降りてきたのは言葉。冷たくひんやりとした布のような言葉。それが彼女にからみつく。
 


1986年に刊行された著者五十代半ばの作品集。チャリオッツ・オブ・ファイア(炎のランナー)。セント・エルモス・ファイア。TVドラマ「ダラス」。デビッド・カッパーフィールド。八十年代っぽさを少しも感じさせないのは、アメリカ文化に侵食されないカナダの片田舎を舞台とする作品群だからか。
日本でいえば私小説的な題材と構造なのに、「過去にこんなことがありました、だから今こうなっているのです」的な物語は一つとしてない。語られているのは過ちを告白する「私」ではなく「個」であり、時代の風俗ではなく、心と肉体と言葉を持った生き物としての生態なのである。
過去と現在、記憶と現実を自在に往還し、入りくませて、閉めきったままだったカーテンがふと舞いあがるように、当時の日記帳には書かなかった想いがよみがえってきて、その思いもよらぬ生々しい感触が現在の自分を揺らめかす。


家族に関する回想を話題とする作品が多いのだが、どの作品も冒頭の数ページで登場人物が簡潔にスケッチされる。顔つき、言葉づかい、服装。現在住んでいる家、職業、人間関係。‘つかみ’が巧いので物語にすんなり入っていける。
いま呼吸しているこの瞬間にも、脳のどこかでは無意識に記憶を絶えず反芻していて、日々堆積する経験の下で少しずつ色を変え形を変えている。連綿とした長い時間の連なりの中では過去の一地点の位置も変わっていく。転がりながら形を変え丸くなっていく川底の石のように、時間と記憶は過去から現在に一直線に進んできたものではないことが語られる。
そして何かが解決するのでも終止符が打たれるのでもないが、著者は主人公たちを穏やかな境地に導いて、ひとまず小説は静かに閉じられる。

 意外なことに、彼は答えることができた。顔をぐっと上げて、まるで表面に浮かび上がるための強い引きを感じ取ったかのように。
 「なんのために祈ればいいのか分かるくらい賢かったら」 と彼が言う。 「僕は初めから祈ったりしないよ」
 冗談半分の答を返すと、彼は共犯者めいた微笑みを浮かべた。


この一冊の中に何人の人生が描かれていただろう。様々な家庭事情と環境にある万華鏡のごときそれぞれの人生模様。凝縮と分解と抽出の妙。もしも人間の博物館というものがあるならば、これはその広大な展示室の中でもきっと小さな一角を占めるべきもののようである。書いても書いても書ききれないとわかっていても、書かずにいられなかったアリス・マンローの壮大な事業の一部。
たとえ肉親ではあっても、愛を誓い合った結婚相手でも、慈しんで育てたはずの我が子であっても、時に不可解な得体の知れない存在に変わってしまう。彼らにとって自分もそのような他者であったかもしれないという冷厳な事実に気づき、少しずつそれに慣れ、そしてやがて醒めていく。記憶が変われば愛の形も変わっていくらしいのだが、短篇小説の中ですらそうであるのなら、実人生はもっと複雑で難解なものなのだ。それをアリス・マンローはよく知っている。
全話が女性主人公を視点人物とする物語だが、男性読者としては「ムッシュ・レ・ドゥ・シャポ」のロスと「祈りの輪」のケルヴィン、二人の男が強く印象に残っている。