ブルース・チャトウィン / 黒々丘の上で


アリス・マンロー『愛の深まり』の翻訳者が栩木伸明さんの奥様・玲子さんだと書いておきながら、そういえばその伸明さん訳の本が図書館にあったのを思い出した。どうして一緒に借りてこなかったのか…… おつむが不調な今日この頃である(いつものこと?)。


【 ブルース・チャトウィン / 黒々丘の上で / みすず書房(412P)・2014年9月(150121-0125) 】

ON THE BLACK HILL by Bruce Chatwin 1982
訳:栩木伸明


・内容
 ウェールズ/イングランド境界の寒村に20世紀の到来と同時に生まれた双生児ルイスとベンジャミン。二度の世界大戦、飛行機や自動車の発展、辺境にまで忍び寄る近代化と消費社会…… そのなかで村という小宇宙を時間を止めて何も変えずに二人は生きてゆく。名作『パタゴニア』で彗星の如く登場し圧倒的な筆力で多くの評価と読者を得ながら、わずか十年でこの世を去った伝説の作家チャトウィン。『黒ヶ丘の上で』はチャトウィンが遺した唯一の長編小説である。没後25年にして、ようやく名訳で到来!


     


国旗にレッド・ドラゴンアーサー王伝説。魔法と妖精と吟遊詩人の国。炭坑と男性コーラス(ジョン・フォードの映画「わが谷は緑なりき」)。「あなたをけして飢えさせない」というメッセージが込められた贈り物、ラブスプーン。ラグビーの国が生んだサッカーの天才、ライアン・ギグスとガレス・ベイル。この作品の中でも何度か歌われる場面が出てくる「わが父祖の地(Land of My Fathers / Hen Wlad Fy Nhadau) 」がウェールズ国歌である。
     
COME ON, WALES! 何度見ても聞いても良い。ウェールズについて詳しく知らなくても、またどんな言葉を費やそうとするよりも、「ウェールズってこんな国なんだ」と思わせる。そして本書もまた、この歌の延長線上に位置する作品だったとつくづく感じるのである。

 彼女は締めくくりに、生き写しの双子の多くは別れて暮らすことができなくて、死ぬのも一緒なのだと説明した。
 「そのとおりだよ!」 空想に耽るような声でベンジャミンがため息をついた。「いつだってそう感じてきたさ」


といっても、舞台はウェールズ物語に多い深い峡谷ではない。東にイングランド、西にウェールズの国境線上の丘陵地帯にある「面影」と呼ばれる農家、ジョーンズ家の百年物語である。
(そういえば『図書室の魔法』の主人公モリもウェールズ人で、休日にはイングランドの寄宿学校から電車とバスを乗り継ぎ、故郷サウス・ウェールズの妖精たちに会いに行くのを楽しみにしていた。少女ながら彼女はウェールズ人としての強いアイデンティティを持っていて、ウェールズ語で「セイス」というのは「イングランド的」という侮蔑の意味があるなどと日記に書いていた)
一九世紀末に身分違いの結婚―農夫と司祭の娘―をした夫婦のあいだに生まれた双子、ルイスとベンジャミン。うり二つの彼らは一心同体で、常に行動を共にする(何となく『悪童日記』っぽいところも感じさせる)。父の農場を手伝いながら成長し大人になり、二つの大戦を経て生家で働きながら老年を迎え、サッチャー政権の頃まで生きる。


全部で50の章に分けられていて、それぞれが独立した掌篇としても読めそう。双子兄弟の八十余年の生涯の間には当然ながらいくつもの出会いと別れがあるのだがスケッチ風の回想にとどめられ、情緒的な描写はなされない。双子ゆえの葛藤や確執にドラマの力点が置かれているわけでもなく淡々とページは進んでいき、気がつけばいつしか双子の口調がかつての父親のそれと似ているあたりは見事である(それを訳出している翻訳も!)。
父の血を濃く継ぎ実際的で社交的なルイスと、母方に似て繊細で神経質なベンジャミンが対立して離れる時期もあるのだが、二人は独身のまま「面影」で年齢を重ねていく。同じ教会に集い、心配して助けあったり陰口を囁きあったりする村人たちとの関わり、とりわけジョーンズ家と農地が隣接するワトキンソン家との諍いと和解が横糸として織りこまれる。跡継ぎを失った隣家が次第に荒れていく様が双子の家とは対象的に描かれていく。
主人公は双子の二人なのだが、これは「黒が丘」という土地と「面影」という家の物語でもあった。ルイスとベンジャミンが見送った、やって来ては去り、あるいは年若くして亡くなってしまった人々。双子や彼らの母メアリーが着ている服がいかにも英国トラッド調で時代の変遷を色鮮やかに伝えてもいる。帽子屋でツイードの同じ帽子を二つ買おうとするルイスが愛おしかった。

 「続けて!」とロッテが言った。ルイスは泣きそうだった。
 「だから、それが悩みの種だったんだよ。俺はときどき、眠れないときなんかに、弟がいなかったらどうなってただろうって考える。あいつがいなくなったら、とか…… 死んだとしたら、なんてね。そしたら俺は自分の人生を送れたんじゃねえかって。子どもだっていたかもしれねえよ」


実は読んでいて既視感を覚えた場面が二つあった。一つは六十年代に「面影」近くの牧草地にヒッピーがやって来てコミューンをつくったというエピソード。もう一つはラスト近くの、ジョーンズ兄弟がセスナで丘の上を飛ぶ輝かしい光景。どちらも似たような場面がA.マンロー『愛の深まり』の中にあったのだ。『黒々丘の上で』が1982年、マンローの短篇集が1986年刊。ということは、マンローはきっとこれを読んでいた― 自分の‘カラース’つながりの推測にすぎないのだとしても、ありえない話ではないだろう。
そんな二冊が原書出版から三十年近くが過ぎて、やっと日本で刊行された。それもほぼ同時に、東京の翻訳家夫婦の手によって。これは偶然だろうか? 個人的にこの二冊は‘双子’、あるいは‘夫婦本’として記憶しておきたい。
なぜ主人公を双子の設定にしたのか、読んでいる間ずっと考えていたのだが、はっきりとした答にはたどり着けなかった。自分が老いたとき、その先誰が土地を、家を守っていくのか。手放して精算してしまうのは簡単だが、跡を継いでいくとはどういうことかを強調するためには一人より二人の方が都合が良かったからだろうか。
父エイモスが手彫りした額縁に飾られた家族写真。母メアリーのパッチワーク。生涯「黒々丘」を離れられなかった双子の暮らしぶりは時代に背き、あるいは置き去りにされたかのようにも映ったのだが、面影という宝物を守り続けて、人生の最期に自分もその一部に加わるのだと知って安堵できたのなら、けして不幸ではなかっただろう。



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東京オリンピックの前年、2019年に日本でラグビーのワールドカップが開催される。
この熱量はこの国で再現可能なのだろうか。しらけた大会になって世界から笑われるようなことにならなければいいのだが… (言うまでもなくサッカー/ラグビーの国際大会は外交と文化交流の場であることは世界の常識だ。現在開催されているサッカー・アジアカップで日本代表はパレスチナ、ヨルダン、イラクと対戦した。この間、わが国の政治家は何をしていたか。資金援助とアメリカへの電話だけが外交ではない)
個人的にはホスト国の一員として、大会までにウェールズアイルランドの国歌をおぼえて(もちろんウェールズ語ゲール語で)大合唱に加わるつもりだ。