平山夢明 / 暗くて静かでロックな娘

平山夢明 / 暗くて静かでロックな娘 / 集英社 (288P) ・ 2012年12月(130116-0119) 】



・内容
 彼女と出会ったのは腐った町の腐った便所。盲目の美女ロザリンドとのロマンスを描いた表題作他、全十編の最新小説集。


          


「すばる」初出の十話をまとめた作品集。カバーは森山大道のモノクロ写真。一枚のロックアルバムを聴くように読んだ。アルバムの宣伝文句風にいうなら「捨て曲なし!」「全曲一発録りの生々しい迫力」という感じか。名曲やヒットナンバーはないが、バラエティに富んで粒ぞろいの短篇集だった。
「死んじまえよ、頼みます、死んでください。お願いします!」 平山夢明らしい洗練されたお上品な文章は健在。「顔にツルハシを突き立てられる」激痛とか「顔の中でハブとマングースが闘っている」感じとか、リアルなんだか大仰なだけなのか、よくわからん言い回しがおかしい。
近所にいてほしくない連中が勝手に生きて勝手に死んでいく。時代錯誤的でいつの時代のどこの街の話なんだかさっぱりわからない。自分の生活との接点を見つけようがない。小説だからフィクションに決まっている。だから笑ってやればいいはずなのに、そうとばかりにいかない読後感に途惑わされる。

 「サブちゃん、蕎麦屋の店員だよね。あたしはコンビニのバイト」
 「なんだよ、今更」
 「出目はないわね。どうあがいたって所詮、あたしらの莫迦親が拵えた世の中の枠から出られっこない」


ズベ公とかスベタとか娘(ちゃんねー)とか、昭和の遺物的な懐かしき死語。ネジが抜けた壊れた者同士の悪態と罵倒の応酬は読んでいるこちらの目が腐りそうである。
できそこないの卵子にできそこないの精子がかかってたまたまこの世にひり出されたできそこないの生き物が、またできそこないを生む。そんな場末の掃きだめは社会のシステムがどうとか家庭環境がどうだとか、個人の資質がとか教育がとか、第三者的視点をまったく寄せつけない。彼らはろくでなし(ロックでなし)ではない。負け組でもなく落伍者ですらない。不良ではなく、不良品。はじめから社会の価値基準から外れた不適合品なのだから欠落や喪失の痛みなんてないのだ。
子どもが死んだというのに斎場に男連れでやって来るトレーナー姿のシングルマザーがいた。もう一人の子どもも死んで、やはり同じ格好で現れて骨を拾っていった。それからしばらくすると、その母親自身が死体となって火葬場に運ばれて来る。遺影にはあのトレーナー。
ありえる話なのか、ありえない話なのか、わからなくなってくるのだが、そんなことはどうでもいいのだ。



無様な横死ばかりが並んでいるように見える。虫ケラのように生きて虫ケラ以下の死に様で死んでいく様は笑っちゃうほどに安っぽく陳腐で滑稽だ。でも、生命の尊さや重さを喧伝する浮薄な言辞ばかりをはびこらせて、自分たちをどんどん息苦しく窮屈にしている現在の世の中にあって、この本はある意味で逆を行っているようにも見える。
人並みの幸福なんてものを知らず、求めようともせず野垂れ死んでいく登場人物たち。彼らの死相に『或るろくでなしの死』に匂った‘エンターテイメントとしての死’の快楽はない。そのかわりに何とも説明し難い‘サムシング’を感じたのは自分だけだろうか?
不快だが嫌いになれないのだ、愛しさまではいかないにしても。浮浪者がいて暴れん坊がいてあばずれがいて野良犬がいて、通りにドブの匂いがした頃。街は今みたいに清潔で安心ではなかったが、今よりずっと開放的で自由だったのを思い出す。

 「あたしはあんたより一日だって長生きしてさ、くっだらないあんたの死骸を焼いた灰をドッグフードに混ぜて犬に喰わせてやるんだよ。そしてあんたが犬の尻の穴から出てくるのを眺めてドンペリで一杯やるのさ。それだけは譲れないね!」 バアサンが叉焼を切り、葱を刻む。


十篇のうち一つだけ異色だったのが、児童虐待をストレートに書いた九話め「おばけの子」。著者名を伏せたままこれだけ読んだら、平山夢明の作品とは思わなかったかもしれない。
子どもを殺してほしくないなあと思いながら、それまでの八話にあった奇妙に乾いた明るさに一抹の望みをかけながら読んだのに、少女は衰弱してそのまま死んでしまった。しかし、まるで救いのない物語だったはずなのに、どこかの一点では救われたような気がしてくるのだから不思議だ。
痛い奴らの痛い話と決めつけて距離を置くのは簡単だが、自分の中に巣喰うそういう曖昧で短絡的な価値判断が少し揺さぶられる。絆や連帯の呼びかけなんて無視される。同情や共感も通用しないから、勝ち誇ったように「生」と「愛」の正しさや常識ばかりを叫んでいた者はおろおろと立ちすくむしかない。あざ笑われているのはどちらだろう。安っぽさにかけてはどっこいどっこいではないか。死あっての生の逆転の予感があるから、どことなくすがすがしく痛快に感じられたかもしれない。
そして、この全篇を通じて『きみはいい子』の続篇のようにも自分には感じられたのだった。