石牟礼道子 / あやとりの記


今月はじめ、水銀による健康被害や環境汚染の防止を目的に熊本県水俣市で開かれた「水俣条約外交会議」。世界から約140の国と地域の代表が集った開会式に寄せたビデオメッセージで安倍首相は 「水銀による被害と、その克服を経た我々だからこそ、世界から水銀の被害をなくすため、先頭に立って力を尽くす責任が日本にはある」 と語った。

福島の放射能汚染水は完全にコントロールされているし、水俣病の問題もいつのまにか解決したことになっている。なんだか動物農場のリーダー豚ナポレオンみたいな口ぶりなのである。まあ本人がこの原稿を書いたかどうかも怪しいものだが、成長戦略とか国家百年の計とか世界で一番企業が活躍できる国とか、この人はいつもこんな調子だ。
威勢の良いことばかり口にする者は、たいがい中身がないものである。どうせろくな本を読んでこなかったのだろう。


今年三冊めとなる石牟礼道子さんの本。この作品は今から三十年ほど前に福音館書店の児童向け文学雑誌「子どもの館」に連載されていたというのだから驚く。(福音館文庫のラインナップは岩波少年文庫に匹敵する宝庫だ)
これまた宝物のような一冊。同時代の作家としてこれまで彼女の本を読んでこなかったことを痛切に後悔している。



石牟礼道子 / あやとりの記 / 福音館文庫 (368P) ・ 2009年 (131017-1021) 】



・内容
 「すこし神さまになりかけて」いるひとたちと楽しみ、また悲しんで、宇宙のはからいを知る幼い「みっちん」の四季。『苦海浄土』で水俣病によって露になった現代社会の病理を描破した著者が、有機水銀に侵され失われてしまった故郷のむかしを綴る。個人的な体験を超え、子どもたちの前にさしだされた、自然と人間の復権の書。
幼子みっちんは、九州の自然のなかで、祖母の「めくらさま」、火葬場の隠亡「岩殿」、女乞食「犬の仔せっちゃん」など、この世のかたすみで生きている人々にみちびかれ、土地の霊「あのひとたち」と交わってゆく。


          


石牟礼さんの幼女時代の自伝的作品 『椿の海の記』 に濃密に詩情豊かに綴られていたかつての水俣の風土と人々の暮らしぶり。その主人公みっちんを再び登場させ、彼女と「すこし神さまになりかけた」人たちが交流する三千世界を描いた八篇。
みっちんの大好きな場所は川土手の藪くらの奥にある。野苺や山桃の甘やかな香りとけものの匂いが混じりあった地面を腹ばいになって進む。小さなへびの子どもがかじった蛇苺の実を見つけたりしながら、もう一つの自分家を探す狐の子みっちん。萱と稲藁をぬくぬくと敷きつめて黄金色に輝く狐の寝床にたどり着くと、えへん、えへんと咳払いしてから「ごめんくだはりまっせ」と小さく声をかけて入らせてもらうのだった。
ときどき魂が抜けだしてしまう祖母のおもかさま。片足の馬曳き仙造やんとその天馬・萩麿。人がよりつかない火葬場をひとりで切り盛りして死人を見送っている岩殿(いわどん)。勧進さま(乞食、浮浪者)のヒロム兄やんと‘犬の仔’せっちゃん。そんな「すこし神さまになりかけた」人たちに見守られまた見守りながら、茱萸の木が生い茂った藪くらで、龍神さまを祀った浜辺で、白鹿の角が生まれ変わった桂の大木の洞で、異界に誘われたみっちんは「あのひとたち」の歌声に耳を傾けるのだった。

 水蓮の葉っぱの露の玉や、小川の岸の草の葉先で今にもこぼれ落ちそうになっている露の玉を見かけると、息が止まるかと思うほど、胸がどきんとすることがありました。
 ( 生まれる前のわたしかもしれん! )
と思ってしまうからです。生まれる前の自分、ああなんとその自分に逢いたいことか。みっちんが水とか露とかを見て魂がとろとろなるのは、そういうわけなのです。


目をつぶっていないと見えない世界がある。家猫が夕日の沈みゆく方角をじっと見つめてこちらを振り向きもしないのは、山の神々と海の神々が移り替わる黄昏どきの賑わいぶりに一心に耳をそばだてているからだ。
自分の恥ずかしい姿をさらしたままでは立ち入りが許されない場所がある。生まれて数年しか経っていないというのに、みっちんは生きているのが恥ずかしいという感覚に不意打ちされ、姿を持たない魂だけの存在になりたくてたまらなくなる。
恥ずかしいというのは(たぶん)けがれているからで、目と鼻と口を持って、両の手足をくっつけてこの世に生まれ落ちてきた不浄と不条理を幼いながらに彼女はぼんやり感じていて、自分は「もっともっとせつない目にあわなければならない」なんて小さな胸に誓うのだった。
ここに出てくるのは「銭取り仕事」が下手だったりできない人ばかりである。冬でもすり切れた着物に粗末な草鞋履き、ときには裸足のままだったりする。しかし彼らはけして世捨て人ではないし、みな慎み深くて礼を欠くことがなく、村人から敬われてもいる。
いつも懐に子犬を入れているせっちゃんがどこで寝ているのか誰も知らないけれど、彼女が通りかかると子どもたちが犬を見せてもらおうと寄り集まってくる。その子たちの手には親が持たせた食べ物が乗っているのである。
ある日、そのせっちゃんが犬ではなく人間の赤子を抱いていたという噂を耳にしたみっちんは、岩殿といっしょに竜神さまの祠に彼女を訪ねる……。



貧しくて不完全な弱者が神さまに近いという逆説。だとしたら、何十年か後のこの土地には神さまがあふれかえったのだろうか。人間がつくりだした毒によって片輪にされた人間は神さまになれたのだろうか。化学工場が流出させた有機水銀は神さまをつくる薬だったのだろうか。
そんなわけはないのである。畏れ多くもたかが人間の分際で神さまをつくりだすことなんてできはしない。恥知らずで分をわきまえない企業と政府が不条理に不条理を上塗りしたせいで、不知火海沿岸の罪なき多数ができそこないにされた。その数、2,973名は2012年7月時点での公式認定患者数だが、それっぱかしであるはずがないのである。
きっと同じことが福島でまき散らされて、今なお海を汚し続けている放射能にもいえるだろう。(豪雨にみまわれるたびにできそこないの福島原発は汚染水をあふれさせているに違いないのに、アンダーコントロールだからいいのである。そして、海はまたいつか怒るだろう…)

 「やっぱり、おこわが好きばいな」
 みっちんがふざけてきゃっきゃっと笑いだしたものですから、婆さまは、
 「こら、子狐、ちゃんと聞け」
 と叱って、ぷーっと噴きだしてしまいました。おこわ飯というのは、狐の大好物なのをみっちんもよく知っていたので、婆さまが「やっぱりおこわが好きばいな」といったとき、ちょっと婆さまの真似をしたくなったのでした。
 めったに笑わないと聞いていた婆さまの機嫌がよくなって笑ったりするので、みっちんはたいそううれしくなりました。


いったいいつから日本人は「銭取り仕事」しかしなくなってしまったのか。あちらこちらに潜んでいる「位の美しい」神さまに遠慮しながら暮らしていた頃、金を稼げなくとも「位のよい」人々がいたことを知らされ、そして、戸籍もなさそうなそういう人たちをけして除け者にしない共同体があったことを思わずにいられない(たとえば徘徊癖のあるおもかさまは「神経殿(どん)」「めくらさま」と呼ばれ、野良犬と暮らす宿無し女のせっちゃんは「勧進さま」と尊称される)。
共同体というキーワードを念頭に本書を読めば、酒好きな馬曳きのエピソードや狐女おぎんの伝承は、まったく新美南吉の作品世界に似ていることにも気づく。昔話や民話に近い物語のようで、あるいは霊感の強い少数者のファンタジーのようでもあるのだけれど、しかしこの作品はそうした虚構化を拒んで、たしかに魂というものが身近に存在することを主張して、読む者の背筋を伸ばさせる。
神さまはどこにいるのか、どうすれば会えるのか。そんなことが書いてあるので、これは語り部としての著者の子ども時代の、ありし日のふるさとの姿なのだと軽率な断定は避けた方が良いのかもしれない。そうして線を引いて現在と過去の分岐点を認めてしまうことは敗北に似ているかもしれない。この世界は失われただなんて軽々しく言わない方がいい。ただ見えなくなっているだけで、魂は変わらずそこにあるのだと信じたい。
ひょっとしたら自分が住んでいる世界の方が‘世外’なのではないかと疑ってみるのはおそろしくも楽しいことなのである。みっちんが狐の子なら、自分は  オオカミの子   なのだから。



※ 11月3日追記

10月29日付・中日新聞夕刊に熊本県を訪問されていた皇后陛下と石牟礼さんとのつかのまの交流があったことが報じられていた。


     


中日新聞皇后さま、水俣の約束 胎児性患者との面会“お忍び”で

熊本日日新聞両陛下、初の水俣ご訪問へ 待ち望む石牟礼さん