イモジェン・ロバートスン / 闇のしもべ


今年はヘビ年ということで、蛇がうじゃうじゃ出てくるらしい『毒の目覚め』(創元文庫)を買いに行ったのだ。ところが(例によって)書店でタイトルをど忘れしてしまい、あれこれ「●の●●●」を探していてこれが目に留まった。
『闇のしもべ』か。どんなのだがわからないまま買ったのは、翻訳者が「ファージング」の茂木健さんだったからだ。タイトルは地味だが、悪いわけがなかろう。予想は当たり、大好物だった!



【 イモジェン・ロバートスン / 闇のしもべ 英国式犯罪解剖学 / 創元推理文庫 (上318P、下350P) ・ 2012年 9月(130120-0124) 】

INSTRUMENTS OF DARKNESS by Imogen Robertson 2009
訳:茂木健



・内容
 1780年、ウエスト・サセックスの爽やかな朝。解剖学者クラウザーを、隣家の提督夫人ハリエットが訪ねてきた。自らの地所で、咽喉を斬られた男の死体を発見したという。その被害者が所持していた指輪の紋章は、この国で最高の格式を誇るソーンリー家のものであった……。厭世家の解剖学者と才気煥発な提督夫人。好対照の探偵コンビが壮大な謎に挑む、歴史ミステリ・シリーズ開幕編。


          


18世紀後半のイングランド。殺人事件が起きて現場の女領主が捜査に乗りだす。事件の背景に名門貴族の秘密があるらしいのは『高慢と偏見、そして殺人』と同じ。警察も裁判も近代法制化される以前のことだから、検屍や現場検証は簡易的で指紋採取すらまだ行われていない。審理は証拠不十分のまま村の宿屋で群衆注視の中で行われ、その場で治安判事と陪審員が評決を下すというのは『最初の刑事』に詳述されていた。本作の主人公の一人は解剖学者なのだが、研究用の人体を手に入れるために死体泥棒や墓荒らしとのつきあいがあったという説明に皆川博子『開かせていただき光栄です』を思い出す。
これは「族籍離脱」の物語でもあったのだが、そういえば『暗殺のハムレット』(ファージングⅡ)のシェイクスピア女優・ヴァイオラもそうだった。随所にあの作品この作品を思い出す既視感は、やがて英国歴史ミステリ伝統の芳香に変わっていく。

 ゆがんだ笑みを浮かべたハリエットが、今の妹のお辞儀を完璧にまねて見せた。「ありがとう、レイチェル。でもわたしは、自分の行動が立派な主婦にふさわしいのかどうか、あまり自信がないんだけど」
 レイチェルが大きく眉を吊りあげた。「まあハリー、わたし、あなたが立派な主婦だなんてひとこともいってないわ。そうなるよう育てられた、といっただけよ」
 ハリエットがナプキンを投げつけるのではないかと、クラウザーは危惧したのだが、おりよくミセス・ヒースコートが食器をさげにきてくれたので、実の姉妹による決闘という最悪の事態は避けられた。


まだ科学捜査が始まっていない時代の殺人事件。やんごとなき名家の醜聞。意外な主人公の組み合わせ。そういう外枠が魅力的なのはもちろんだが、何よりもその語り口に魅了される。
ロンドンで身分と名前を変えて楽譜店を営んでいるアダムズのパートと、サセックスの高級軍人の妻ハリエットのパートが交互に描かれる。無関係に思われた二本の線が急カーブを描いて接近し、一つの点に向かって交錯する。事件の鍵を握る人物は早くから特定されているにもかかわらずなかなか実証を得られず、やきもきしているうちに追う側が狙われる展開になる。良質なミステリの伝統にのっとった手法は手堅いものだが、スピード感も十分。
英海軍提督の夫の留守を守っているハリエットがイングランド最高と目される大貴族の暗部に果敢に挑む。初老の解剖学者・クラウザーが紳士的な助言を与えながら彼女の直情的な行動をいさめる。世を厭うクラウザーの来歴も訳アリで、二人の信頼関係にひびが入りそうになっては、より強固なパートナーシップが築かれていく、その心理の揺らぎが見事に描出されている。



主人公以外の登場人物もみな造型豊かだ。何ものにも臆することなく即断即決しようとするハリエットの妹レイチェルは姉とは対照的な性格で、ちょうど『高慢と偏見』のジェーンとエリザベス姉妹をひっくり返したような関係だ。彼女が敵対する形になる貴族の次男とかつて恋仲にあったというのもお約束だが効いている。
父親を亡くすロンドンの姉弟のけなげな姿も愛らしく描かれ、彼らを保護する人たちも善良だ。他にも村人やメイド、田舎紳士など階級のちがう端役のキャラクターも立っていて、各場面が生気に満ちていた。
1780年のロンドンはゴードン暴動(カトリック排斥運動)で騒然とした空気に包まれていた。アメリカでは独立戦争が続いていて英軍は苦戦していた。そうした史実が巧みに織りこまれて物語を奥深いものにしている。
高慢と偏見、そして殺人』、それに『宙の地図』にも現れる、英国にとっての新しい国アメリカ。流刑地であり新天地であり、「王も貴族もいない自由の国」。十八〜十九世紀の英国社会を描いた作品に現れるアメリカという国の存在にもあらためて目を開かされたのだった。

 正面の虚空を見つめたまま、スーザンはいった。「いいえ。わたしにはわかる」 それから彼女は、グレイヴスを見あげた。可憐な花のようなその顔に、彼は名状しがたい痛ましさを感じた。「ねえミスター・グレイヴス、今の話、ジョナサンにはいわないで。こんなこと、あの子は知らないほうがいいと思うの」
 グレイヴスが無言でうなずくと、三人は同時にジョナサンを見た。今やハーデュー子爵ジョナサン・ソーンリー閣下となった少年は、暖炉の前でラグの飾り房に指をからませ、馬の夢をみながら安穏に眠っていた。


振りかえってみると、いろいろ詰めこみすぎて(物語が肥大化して)前半のどっしりした風格が消えて終盤やや性急になった感は否めない。ハリエットが貴族の屋敷にずかずか乗りこんでは望んだ証拠を易々と入手していくのに、そんなに都合良く進むものだろうかと思わないではない(そもそもこのヒロインにはおしとやかで慎ましい淑女らしさがあまりないのだが)。毒殺に使われたヒ素の処理やレイチェルのロマンスなど、いくつかのトピックは宙ぶらりんのまま終わってしまう。ロンドン育ちの幼い姉弟サセックスの貴籍に復帰するという最も劇的なはずのドラマが最後は薄れてしまった。でも、それらは読んでいるあいだはまったく気にならなかったし、裏返せば「もっと読みたい」というぜいたくな欲求なのだ。
これは現実には越えられない「階級の壁」を突破してしまう作品だ。約束された地位や名誉をかなぐり捨てた者と、その座を掠め取ろうとする者の対比。フィクションゆえに可能なのだとしても、そういう物語はいつだって面白い。
著者は2009年に本作品でデビュー。英本国ではすでにシリーズとして続篇が三作発表されていて、日本でも順次刊行予定だという。また楽しみが増えた。
茂木健さんの訳は期待どおりの素晴らしさ。英国好き、英文学好きの人が英国的な作品を翻訳するのだから当然なのかもしれない。