ありがとう清志郎!

再入院したと聞いたとき、もしかしたらもう永くはないのかもしれないと漠然と思った。よりによってロック歌手が癌に喉を冒されるだなんて、克服できたとしても元のように歌えるわけがないと思っていたから、清志郎の復活は奇跡的なことに思えた。
あのとき、歌うのをやめるという選択肢もあったはずだ。清志郎ならミュージシャンとして曲を書くだけでも生きていけただろう。
だけど、彼はそれで良しとはしなかった。あの、カッコいいキヨシローとして生きていくことを選んだのだ。それはソウルマンとして死ぬ覚悟でもあったのかもしれない。


     


忌野清志郎という人は、アーティストである前に、まずとびっきりのアイディアマンだった。“ RHAPSODY ”を聴いていると、泣けてくるのに楽しくもなってきてしまって困る。初めて観たとき聴いたときのワクワク感がちっとも褪せないで甦ってくる。
ライブのオープニングにメンバー紹介の楽曲‘よォーこそ’を演奏する。そもそもフォークなのにストーンズみたいなバンドで自分はオーティス・レディングぽく(ガッタガッタ、ヘイ!)足踏みしながら歌う。キーボード・ロボットのゴンタ2号。教習生の腕章。アンジーみたいなエンジェル。「OK、チャボ!」と清志郎にうながされてチャボがかき鳴らす、あの永遠のギター・リフ…
歌詞だって、詩的というより、弾け、煌めき踊る言葉を並べてリズムに相乗させていく鋭い感覚が光る。
「ずいぶんだぜ、ずいブンブンブン」「どうぞ勝手に降ってくれ、ぽしゃるまで」(ぽしゃる、なんて歌の中で使えるのは清志だけ)「ウソつきだから甘いメロディ知ってる」「聴かせたい歌がたくさんあるのさ」…


脳梗塞で倒れたボブ・ディランが退院したときのセリフは「エルビスに会えるのかと思った」。 清志郎はオーティスに会いに行ったのかもしれない。一緒に歌っているだろうか? いや多分、意外にシャイだった彼は離れた所からこっそりオーティスを見つめては、一人になってマネをしているんだろう。

そうやって彼独特の方法で消化して身についたものが歌に体現される。パフォーマーとして唯一無二だったけれど、彼の優れた資質の一つには、ロックの宣教師のような、名翻訳家としての側面もあったと思う。
彼の歌を通して、どれだけロック/ソウルの、情報ではなくアティテュードが伝えられただろう。彼の存在が良いフィルターであったのは、日本の音楽好きには幸せなことだった。逆に言えば、彼のセンスが良かったということでもあり先見性も確かだったのだ。
彼は良い時代にロック・ミュージシャンとして生きた。高機能・高性能を求められる今だったら居場所はなかったかもしれない。カラオケ上がりの女の子がちょっとゴスペル風に歌えれば、ソウルなんてなくてもR&Bシンガーを名乗れる時代なのだ。
フォークだろうがロックだろうが、何でもSweetSoulMusicに変えてしまうのは、清志郎にしか出来ないマジックだった。


彼の仕事の中でもスウィーテストなものの一つと思えるのが、2003年Leyonaのシングル‘500マイル’
  
PPMの名曲を清志郎がHIS用に訳詞した レヨナのカヴァーに参加)

いつかレヨナと清志が一緒に歌うのを見たかったのに、もう叶わない。
「おいらキヨシロー、どうぞヨロシク、ガガガガガガッ!」 こんなシャウトももう永遠に聴けなくなってしまった。


今こうして清志郎が遺したレコードやCDを聴いていて、絶唱の数々は、少しずつ少しずつ、彼が喉を傷つけ削っていたものだったかと思うと、切なくてたまらない。ミック・ジャガーがぴんぴんしてるのに、清志郎が逝くなんてあんまりだ、とも思う。
やっぱり、悲しい。
これだけは言わなくちゃ。 ありがとう、清志郎! おまえの歌大好きだったぞ! お疲れさまでした。


清志郎のソウルに遠吠えよ届け!