斎樹真琴/十四歳の情景

基本的に小説でもドラマでも子供の話は好みではない。自分の思春期を思い出すと気恥ずかしいし、もはや「瑞々しい青春の輝き」的なものを小説に求める年齢でもない。それと、だいの大人が少年少女を主人公に書いてちゃだめだろ、同年代を納得させるものを書いてほしい、とプロの作家には求めたい気持ちもある。
たとえば「本屋大賞」というのの上位十作品のうち半分以上がユース年代をテーマにしたものだったと思う。だからあの賞そのものに興味がない。

そういうわけで中学生の話なんてまず手を伸ばさないので迷ったのだが、『地獄番 鬼蜘蛛日誌』の斎樹真琴さんの二作目ということ、それと最近になってやっとDVDで『赤い文化住宅の初子』を観ることができたので、その勢いで読んでみた。


【斎樹真琴/十四歳の情景(219P)/講談社・2009年(090505-0506)】


       

     
十五歳になるまでに視力を失う家系に育った潤は中学二年生。やはり一年前に失明し自殺した兄の日記に記されていた「時の情景」。それは、少し先の災難が見えてしまうというもの。兄が見てしまい、妹と後輩に託したこととは? 潤はその運命を受け入れる覚悟をしているが、「時の情景」に見せられたことにどう関わっていくのか悩む。

 そんな遺伝にかかわる全てを知りたくて、目が見えなくなるのを待っていた。
 えぇそうよ、今か今かと待ち望んでいましたとも。だから何も怖くない。兄貴が生きていた世界にやっと足を踏み入れた。感慨ひとしおってやつだ。
 視力が弱まり始めたことに気が付いたのは、黒板の文字が見えづらくなったときだった。


少女の視力が落ち始め失明するまでを日記形式で綴っていく。
物語上は兄の日記が重要な鍵として扱われるのだが、これは妹の日記だから兄が何を書いていたのか想像しなければならない二重構造。(十四歳の女の子の文章という設定だから同級生との会話シーンが多くてついていけない部分があるが)
「時の情景」を見せつけてくる、仕組まれた巨大な歯車の存在。さだめられた運命を知ってしまうことの怖さと、それに抗おうとする気持ちの揺れに、思春期の敏感さ多感さを上手く描いていたと思う。自分の無力さや人間関係の不可思議な縁を、何かにそう導かれていると感じることは歳を重ねても感じるときがある。
不幸に見舞われるのに、あっけらかんとした少女の態度の裏に秘められた暗いざわめきと兄への文字どおりに盲目的な信奉は、兄妹の禁断の関係(?)を匂わせるが、これはなくても良かったのではないか? かえって全体の印象を散漫にする要素だと思えた。

 「回っているの。兄貴が仕掛けたもの以上の、もっと大きな歯車が。だから、危ないから、近づかないで」
 前に屋上に来たときに見えた『時の情景』が気になった。赤い赤い、紫に近い空の色が。あのとき、虚無と死の臭いを感じた。あれを見せたのは、私に流れる血だ。


『地獄番 鬼蜘蛛日誌』の空は鮮烈な青だったが、盲目の少女が校舎の屋上で見るのは赤紫に染まった夕空だった。世界が自分と兄と母の血の色に染まって見えてしまうのも、十四歳の必然だったかもしれない。ましてや失明の闇に突然拓けた赤い空間は、生理的な誘惑を孕んだ悪意の色に見えたのかもしれない。
自分の意思にかかわらず運命によって選別淘汰されることに気づいてしまった潤がみる「時の情景」は、彼女に何を試していたのだろう?
ちょっぴりサスペンス・ミステリー風味を持たせながらも無駄に暴走させないで、小さくまとめたことでかえって等身大の中学生のリアリティを損なわない作品になった。

現代の中高生をわけのわからない生き物として描くのは、むしろ想像力を必要としないのだ。自由勝手な空想でもって面白可笑しく描こうとしない態度は『赤い文化住宅の初子』に近くて良かった。

… と書いたところでちょっと気になって調べてみたら、斎樹さんもタナダユキも同年代の福岡県出身だった(関係ないか)。