エスパルス25節 / 永遠のサナダ・コール


例年より少し早く感じる秋の訪れ。ほとんど子供のように、指折り数えてこの一週間を心待ちにしていた。
土曜エコパ(VS磐田)−水曜アウスタ(VS新潟)−土曜エコパ(VS浦和)の三連戦。仕事の都合もつけた。ユングベリは見たいような見たくないような。でも久しぶりにエスパルス漬けの一週間を満喫するぞっ! と思っていたのに……



【 9月10日 / Jリーグ第25節:清水 1−2 磐田 / 永遠のサナダ・コール 】



6日深夜に飛びこんできた訃報。エスパルス初代守護神、眞田雅則さんが43歳の若さで亡くなられた。


     


1985年、清水商高が選手権初優勝したときのメンバーである。東海大一高との静岡大会決勝は史上初のPK戦だった。江尻、青嶋らとともに眞田を中心に堅い守りで全国でも頂点に立った。
同期は中山、武田ら。ここから続々と、三浦文丈藤田俊哉名波浩川口能活安永聡太郎小野伸二小林大悟らを輩出する清商黄金時代が始まったのだった。


これまでにどれだけ彼の名を呼び、叫んだことだろう。肩の力を抜いてすっくと立ち、ぐっとあごを引いて相手キッカーの目を真っ直ぐ見つめる彼の背に、どれだけの声援を送っただろう。
ケンタ・コールもした。ノボリ・コールもした。だけど、自分のエスパルス史上最多コールは、まちがいなく常に西サイドスタンドのいちばん近くにいた彼に向けたものだった。



1992年10月11日、日本平運動公園球技場。Jリーグ開幕前年の第一回ナビスコカップ。準決勝進出をかけたジェフ市原との試合。
1−2と逆転されて残り数分。左サイドを突破した青嶋が送った速いクロスに飛びこんだのは、なんと堀池だった! 土壇場の同点弾。その後は一進一退のまま延長でも結着はつかず、勝負はサドンデスのPK戦(一本目からどちらかが失敗したところで終わる)へともつれこんだ。
先蹴りはジェフ。キッカーはパベル。立ちはだかるは、われらが守護神・眞田。バックスタンドはまだ貧弱で一部は芝生席もあった日本平スタジアムを怒濤の‘サナダ・コール’が包みこんだ。
当然の如く、パベルは失敗する。そしてトニーニョは成功。何人ものサポーターがピッチに飛び降り、選手に駈け寄って抱きついていた。清水FCエスパルスは続く準決勝で名古屋を撃破、晴れの決勝へと駒を進めたのだった。
(その草薙での準決勝、名古屋ゴールを守っていたのがディド・ハーフナーだった)


     


あの日のあの勝利から十年以上も‘サナダ・コール’が止むことはなかった。不可解な判定でPKを献上したとしても、さて、眞田の出番がやって来ただけだと思えた。「PKを止めるのは眞田だけども、止めさせるのはわれわれだ」という清水サポーターが抱きがちな勝手な共同体幻想を、彼は許し続けてくれた。GKとサポーターの幸福な共犯関係。‘サナダ・コール’は日本平に眠る超自然の力を呼び覚ますのかと思わせる夜がいくつもあった。
実際にはPKストップの確率は五割を大きく下回る。だが、コールのヴォルテージを上げれば上げるほど、その確率は高まるのだというサポーター心理に応えてみせるのも、名キーパー(=一流の役者)に絶対不可欠な一条件のはずだ。四年後、国立競技場のピッチで彼はその資質を明らかにしてみせた。
だから、やはり清商で全国制覇したキーパーの逸材がいると聞いても、われわれは涼しい顔で受け流したものだ。「川口? いらないよ。眞田がいるもん」


     


プレミアリーグの中継を見ていると、ときどきスタンドの‘レジェンド’が映し出される。サー・ボビー・チャールトン、ケニー・ダルグリッシュ(現・リバプール監督)、ケビン・キーガン、イアン・ラッシュ、ブライアン・ロブソン…… ジャケットに帽子、ネクタイ姿の、すっかり「おじいちゃん」になった往年の名プレーヤーが姿を見せると、観客席は敵味方なく笑顔と盛大な拍手で迎える。
十年後、二十年後の日本平スタジアムで、そんな光景が見られるのを今から楽しみにしている。サッカー選手は、いや、あえてエスパルスの選手は、と言おう、現役を引退したってその役割に終わりはない。名手は名士になる。いつか子供たちに「あの人は昔、エスパルスの選手だったんだよ」と紹介させてほしい。そういう歴史をこれからつくっていきたい。
チームの変遷を間近に見続けて、最も客観的に語ることができるのも彼だったかもしれない。でも、その機会は永遠に失われてしまった…… 将来、エスパルスと清水のサッカーについて彼が語るはずだった言葉も含めて、この喪失は計り知れない。43歳で逝っちゃうなんて、あんまりだ。



きまじめで真っ正直な性格はプレーにも表れていた。ハンサムな好青年。だけど、ちょっと堅苦しくて、キザな感じ。高そうなプライドは、たぶん自らにそう課していた。クールを装っているけど、しかし重厚にはなりきれないあたり、もうみんなわかっていた。
GKとしてけして恵まれた身体ではなかった。その分、1cmでも高く遠く早く飛ぶための錬磨を怠らなかった。その姿はまるで清水エスパルスという地方の小クラブの闘いそのものだった。
日本平ゴールマウスに立つプレッシャーは、おそらく他スタジアムの比ではない。肉体はもちろん、心臓にも過大な負担を加え続ける重職であったか。それでも彼は気高くまっとうした。
あらためて、二十年前の彼の選択を思う。そして、こう思わずにいられない。清水に戻ってきてくれてありがとう。エスパルスゴールキーパーがあなたで、本当に良かった! 眞田雅則のイメージを受け継いでいくのは清水の1番を背負う者だけの使命ではない。われわれだってオレンジ戦士、同志なのだから。これまでも、これからも。
眞田さん、やすらかに。そして、日本平ゴールマウスに眞田の魂よ、永遠に宿れ!


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。



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そして迎えた今日、エコパでのダービー。特別なダービー、のはずだった。
試合前のアップでは全員が眞田の「1」のシャツを着ていた。
ディドのシャツには「Remenber You Forever」、海人のは「心一つに、絶対勝利」のメッセージが書きこまれていた。

     
     


試合は1−2の敗戦に終わった。
妥当な結果と受けとめられたのは、磐田のルーキーにして10番・MF山田大記と清水のサイドハーフの質の違いを目の当たりにしたからである。(高卒でプロとして数年過ごしてきた者が大卒者に負けてるなんて、本来あってはならないことではないか?)
はっきり言って山田は好きなタイプなので(昨年の淳吾みたいで)、眞田さんのことがなければ彼と、もう一人の好み・ボランチ小林裕紀(昨年の本田拓也みたいで)について書いてもいいかなと思っていたほど。画像はアップしないけど、今日いちばん写したのは山田で、それはボールを持てて絵になっているということであり、逆にエスパルスにはそういう選手が全然いなかったということでもある。エコパにつめかけた大勢のサッカー少年たちの目に、最も鮮烈な印象を残したのは誰か。明日の練習でさっそくマネしてみようと思わせるプレーを見せていたのは誰か。それが清水の選手ではないのが本当に悔しい。
たぶん、これからまた磐田は強くなっていくだろうし、今後何年か、このコンビが好敵手として立ちはだかって、エスパルスがダービーに勝つのはますます難しくなるだろう。


ユングベリが投入されて清水のメンバー表にはカタカナ名が四つになった。
片鱗、らしきものは見せてくれたが…、即断は避けたい。彼が良いポジションに入っていった瞬間は何度もあったがボールが出てこないのだから話にならない。チームにフィットするしないの前に、そもそもフィットすべきチームそのものがあるのだろうか。彼がJリーグに慣れる頃にはシーズンが終わるのではないか。