三浦しをん / 舟を編む


三浦しをん / 舟を編む (348P) / 光文社・2011年 9月 (111008−1011) 】



・内容
 玄武書房に勤める馬締光也(まじめ)は営業部では変人として持て余されていたが、新しい辞書『大渡海』編纂メンバーとして辞書編集部に迎えられる。個性的な面々の中で、馬締は辞書の世界に没頭する。言葉という絆を得て、彼らの人生が優しく編み上げられていく。しかし、問題が山積みの辞書編集部。果たして『大渡海』は完成するのか─。言葉への敬意、不完全な人間たちへの愛おしさを謳いあげる三浦しをんの最新長編小説。


          


自分にとって国語辞典といえば金田一春彦さんがすぐに思い浮かぶ。中学入学以降、手にした辞書のことごとくにその名が刻印されていたような気がする。最近は辞書を引く回数も少なくなったけれど、若い頃、こういう本はいったいどのように作られるのかと思ったことが何度もある。
とりあえず辞書を引けば、どんな言葉でも説明が書かれている。過去から現在までのあらゆる日本語を網羅しつつ、正確で万能の重責を課された一冊。それは聖書や法典と同様に、使用者には始めからあって当たり前の存在だ。でも、誰かがそれを書いているわけで、人の体温を感じさせない‘辞書的な文体’も(たとえば「男」という見出しを引くと「女ではない方」とあり、「女」を引くと「男でない方」と書いてあるような…)誰かの創作にちがいないのだ。
そんな国語辞典制作現場の舞台裏をハートフルに、ときにコミカルに描いた本書。読み終えると辞書を繰りたくなったのだった。

 どれだけ言葉を集めても、解釈し定義づけをしても、辞書に本当の意味での完成はない。一冊の辞書にまとめることができたと思った瞬間に、再び言葉は捕獲できない蠢きとなって、すり抜け、形を変えていってしまう。辞書づくりに携わったものたちの労力と情熱を笑い飛ばし、もう一度ちゃんとつかまえてごらんと挑発するかのように。


大手総合出版社の玄武書房に「広辞苑」「言海」級の新たな日本語辞典制作の企画が持ち上がる。真面目一方で言葉への執着以外には何の取り柄もない青年が配属され、長年の奮闘努力の末にようやく日の目を見るまでのお話。
個人的にはストーリーにはさほど惹かれなかった。人物設定と舞台となる編集部の人間関係は小説的にかなり省略されていて漫画的ですらある。
二十数万語を収蔵する辞書を作ろうというのだから、編纂作業が大変なのは想像に難くない。書籍に限らず新商品の開発と製品化には苦難がともなうものであって、この主人公たちの情熱の傾注ぶりは仕事として当然と、特別な共感を覚えるものではなかったのは、自分が労働生活二十年を越えてとっくにくたびれ果てた男だからだろうか。
お仕事小説として見れば、紆余曲折を経て達成されないプロダクトなど(小説には)ないのだから、ありきたりなストーリーと言い切ってしまうのも、ひねくれた見方だろうか。



興味を持つのは辞書編集部の具体的な作業工程に触れた部分。編集者の言語感覚、ある単語の採用か削除かをめぐる判断、語釈の書き方、執筆者と編集者の関係、出版不況下での辞書制作部門への風当たり、等々…。
特に辞書に使われる用紙選定の場面は興味深かった。そういえば辞書の紙って薄いよなぁ、でも酷使に耐えて丈夫でなければいけないし裏が透けてもいけないし、なおかつインクがよく乗ってめくりやすくなければいけないんだよなぁ… 辞書として当たり前で見過ごされがちな機能が、実は制作陣の苦心惨憺の末の成果なのだとあらためて教えられたのだった。‘モノ’としての辞書は、まず紙を梳くことから始まるのである。
さっそく手元の辞書を開いてめくってみる。なるほど、‘ぬめり感’がある。一枚だけ指に吸いついて、次やその次のページまで一緒にめくれてしまわない。この紙一枚に費やされた時間と労力を思うと、これは紙代だって馬鹿にならない製品なのだと、いまさらにして気づかされるのだった。

 たくさんの言葉を、可能な限り正確に集めることは、歪みの少ない鏡を手に入れることだ。歪みが少なければ少ないほど、そこに心を映して相手に差しだしたとき、気持ちや考えが深くはっきりと伝わる。一緒に鏡を覗きこんで、笑ったり泣いたり怒ったりできる。
 辞書を作るって、案外楽しくて大事な仕事なのかもしれない。


自分としては、もっとドキュメントタッチの作品を期待していたというのが本音。仕事の高尚さに比して登場人物たちの営みは軽く思えてしまったのだが、それがこの著者の作風なのだろうか。言葉を扱う者として、言葉への洞察の深さはうかがえたのだけれど……
国語辞典は国の文化に関わる物であって、公的補助があってもおかしくない事業だ。だが、お上の息のかからない民間が作ることにこそ意義があるのだ― 短く紹介されている業界内の議論は、歴史教科書問題も思い出して、ちょっと立ち止まって考えたくなる。もし国語辞典に為政者の操作が加えられるとしたら…… こうして何種類もの辞書が販売されていて、国民が自由に選ぶことができることは、民主主義的な光景の一つなのである。
このあたりを深く突きつめればそれで一篇の重厚な小説になるだろうし自分的にはそういうものが読みたい気持ちもある。(たとえば、これから刊行される辞書の「原発」や「津波」はどのように記述されるべきか?)
「検索」ではなく「字引き」。「データベース」ではなく「用例採集カード」。ある言葉を調べていると、また新たな言葉にぶつかって 時間を忘れて言葉の海を泳ぐ。そういうアナクロのロマンは伝わってくるのだが、作品そのものは電子書籍でも読めそうなあっさりした読みごたえ。さて、辞書を編むという仕事と、それを小説に仕立てる仕事と。軽重を量って比べられるものではないけれど、気の遠くなるような地道で緻密な辞書づくりに対抗するだけの熱量がこの小説にはあっただろうか。(好みの問題もあるけど。光文社の本らしい楽しさはある)
辞書なんてどれも大差ない似たものだろうと思いがちだが、それぞれに監修者・編集者の個性があることを、彼らの矜持がどんな箇所に息づいているのかを知ることができる。この作品そのものというより、辞書という物へのリスペクトを新たにした一冊。