樺山三英 / ゴースト・オブ・ユートピア


この頃、書店に行くたびに購入を迷うのは小川洋子さんと川上弘美さんの新刊。どちらも酒井駒子さんのイラストが表紙カバーを飾っている。川上さんの「七夜物語」上下巻にいたっては、カバーのみならず本体全篇に酒井さんの絵がちりばめられていて、「うーん」と唸りつつ本を閉じたり開いたり、上げたり下ろしたり。ようやく立ち去ったかと思いきや、すぐにまた戻ってきたりして、店の防犯カメラには完全に挙動不審者(しかも常連)として映っていることであろう。


で、さんざん悩んだあげく、たまたま目にしたこういうのを買っちゃうのである。



樺山三英 / ゴースト・オブ・ユートピア / ハヤカワSFシリーズJコレクション (326P) ・ 2012年 6月(120714−0720)】



・内容
 いかにしてディストピアSFの古典が誕生したかを著者オーウェルの生涯をたどることで探る「一九八四年」、あの奇想天外な風刺小説を異色の会話劇として再構築した「ガリヴァー旅行記」、激動の20世紀陰謀史をQ&A形式で解体する「すばらしい新世界」ほか、古今東西の文学作品10篇をモチーフに、21世紀という時代の本質を追究する試み。


          



どんな内容なのか、まったく予想がつかぬままに買ってきた。ふつうの小説ではなさそうだけど、これは行けるんじゃないかという直感だけで。
目次には1984年、ガリヴァー収容所群島太陽の帝国、それに華氏四五一度とそそるタイトルが並んでいるが、正統な文学評論ではもちろんない。人民戦線兵士としてスペイン内戦に参加したオーウェルと誕生日が同じという理由でガウディが対話に引っぱり出され、馬の国から戻った馬のマスクをかぶったガリヴァーの正体を明かすために登場してくるのはツァラトゥストラだったりアリスだったりする。
ユートピアをめぐる「きみ」と「ぼく」の前半五話は‘nowhere’(どこにもない)、「ぼく」の特異な体験が語られる後の五篇は‘ now here’(いま、ここ)の物語として括られている。随想、寓話、社会批評、戯曲風と様々に語り口を変えて、歴史を混乱させ記憶をあやふやなものにして現実の土台を揺るがせる企み。奇天烈でいて、しかしときにとんでもなく詩的でもある騙り。これがなかなか楽しく、面白かった。

僕らは詩人で、だから憂愁と悲哀に関して、とりわけ敏感でなければならない。それこそが、彼らの存在理由なのだから。水とは元来、哀しみの元素。溶解した憂いの謂いだ。水は世界の代わりに泣くんだ。それが詩人の目を通し、涙となって零れて落ちる。わかるかな? たんなる趣味の問題じゃない。言うなれば、世界の均衡を保つ儀式だ。美女はそのための媒介である。だからただしく死んでいなければ。


テーマはユートピアだが、荒唐無稽、奇想天外な連作形式で語られていたのは何だったか。読み終えた今でも、実はよくわからない。実験的といえばそうなのだが、けして難解ではない。だけど、わからない。そのわからなさが不快なものではなく絶望的でもなく、刺激的だった。
理想郷を探す「きみ」と、それを見ている「ぼく」。両者は接近していく。「ぼく」は「きみ」であり、「きみ」は「ぼく」だ。「ぼく」は「ぼくら」になり、「ぼく」に分岐していく。『俺俺』みたいなもんか?と思ったりもして。
ぼくらは果てて焼かれ、灰になり舞い上がって、宇宙の塵になってまた地上に降りそそいで、和解し融合して転生する。そんなイメージと、おぞましく惨たらしい光景が奇妙に同居している。



ユートピアの建設をめざしながら、この世に実現されるのはディストピア的現象である。ファシズム全体主義の嵐にさらされた二十世紀文学を、一貫してシニカルでアイロニカルな文体で振り返る。物語というより、そこここに散りばめられ、また各話の骨格に反映される反語のイメージが強烈に残った。
始まりは終わり、終わりは始まり。われわれは生まれる前から死んでいる。問いかけは結論。「きみ」は「ぼく」。すべてを見ることはできない、目で目を見られないように。ユートピアが‘nowhere’でありながら‘ now here’であるのなら……
言葉と物語がはらむ可逆な両義性、蓋然性を諧謔的な風刺に落としこむ。言葉遊びとも悪ふざけとも受けとれるその作業は実はいたって真面目で、悲惨で滑稽な矛盾に満ちたものとして再現される人類史に、なんというか、SF精神としかいいようのないものを見せつけられた気がして嬉しくなってしまったのだ。

 「われわれは、新しい人間を必要としているんだ。収容所とはつまり、人間の可塑性についての厳密な実験場だよ。《自由は堕落させるが、強制は教訓を与える》 これこそわれわれが胸に刻んでおくべき言葉だ」
 「それもドストエフスキーの言葉ですか?」
 「いや違う。アレクサンドル・ソルジェニーツィン、偉大な囚人思想家の言葉だよ。知っているかな?」
 「ええ、その人には会ったことがある」


考えてみれば、これはSFなのか?とも思う。だけど、SFでないのなら何なのだ、という問いに反論できないのは『盤上の夜』と同様。わけがわからなかったけれど、百発百中の予感はある。SF作家は詩人でもあらねばならない。新時代のSFへの期待と興奮にぞくぞくさせられた。
オーロラは星の発情の現れ。尻尾のはえた娘は言う「わたしは愛と愛と愛と愛とでできている」。美女しか棲まない〈美女の国〉で生まれた雄が下流に捨てられて詩人になる。そしてオーデンの「1939年9月1日」。混沌と頽廃に渦巻く汚穢からうっすら立ちのぼる詩的イメージは予想外に美しかった。労作にして怪作、怪作にして快作。本年ベスト級の作品だった。
本書はSFマガジンに2008年から10年にかけれ連載された作品集。ゆえに最後の「華氏四五一度」ではブラッドベリが亡くなったことには言及されていない。これが今年六月に亡くなった巨匠(享年91歳)へのオマージュになっていたなら最高だった。