エスパルス2012 : 二十年目のOle! S-PULSE


今年七月の二十周年記念に合わせて書きながらもチームは長い低迷期に入ってしまい、アップする気になれなかったこの記事。ナビスコで優勝したらと思っていたが、それも叶わず。そうこうしているうちに今年も終わってしまいそうなので、季節外れの変なタイミングになってしまったが載せることにする。



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清水エスパルス創設20周年、おめでとうございます!


     


二十年前、菓子問屋に就職した後輩にもらったグリコのパルちゃん時計(非売品)。
二十年休まずにチクタクチクタク、お兄ちゃんといっしょにチクタクチクタク。今は、もう…… いや、この時計、壊れないのである。さすがにパネルの絵柄はだいぶ色褪せたものの、時刻は今も正確。単三一本で動くのだが、これまでに電池を替えたのは数度だけだ。
雑誌や衣類の山に埋もれたままにした時期もあったが、この二十年間、自室の片隅でずっと時を刻んでくれている。パルちゃんはわが家でも働き者なのである。


     
     


「決戦は金曜日」「世界中の誰よりきっと」「部屋とYシャツと私」「君がいるだけで」「負けないで」― 1992〜93年のヒット曲である。こうして並べてみると、なんとなく当時の世相は浮かんでくる。
Jリーグが開幕した1993年当時、スーパーで、商店街で、ニュースやCMで、うるさいくらいに流れていたあの軽薄なサッカーバブルの象徴「WE ARE THE CHANP!」もこの頃はまったく耳にしなくなった。ヒット曲は忘れられ、人気歌手は表舞台を去る。でも、われわれは今も歌っている、「ビバ!エスパルス」を。
エスパルス”― 清水に新設されるJリーグクラブ名は公募された。はじめは変な名前だと思ったのに、スタジアムに通い、サンバのリズムに合わせてその名を呼ぶうちに、だんだん大きな言葉に変わっていった。自分にとって今やほとんど‘青春’と同義であるこの新造語は、二十年のあいだに‘わが心の代表’の名になり、勇気や不屈、友情や郷土愛の代名詞になった。


     
     


まだ草薙で試合が行われていた頃、勝利の儀式。大雨が降りしきる中、シャペウ・ラランジャを囲んで噴水広場で気勢を上げた夜。駅までの通路はパレードになった。まるでブラジルみたいに思えた。
レプリカシャツやタオルマフラーなんてものはまだ出回っていなかったから、みな思い思いのオレンジを纏って集まったものだ。顔に絵の具を塗ったり、黄色いカツラをかぶったり。天神屋の‘エスパルス弁当’のフタがパルちゃんのお面になっていて、それを付けてはしゃいでいたのは自分だ。旗を振り、ホーンを吹き鳴らし、見知らぬ者同士が肩を組んで歌い、踊った。あのときの名も知らぬ仲間たちがいい大人になって、今日もアウスタのどこかで一緒に歌ってくれていると信じている。


     
     


サンバベースの楽しい応援スタイルがあったからこそ、今でもエスパルスサポーターでいられる。どこかみたいに念仏のように「ウォーウォー」唸ってるだけだったり、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」や「ラ・マルセイエーズ」の下手な替え歌をやるようになったら、自分はさっさとサポーターなんて辞める。そんな心配は無用だから言うのだが。


     


はじめは新しい娯楽の一つだった。それが人生に欠かせない1パーツだと感じはじめたのは、97年の経営危機からだ。
エスパルスが存続するなら給料はいらない」― チーム消滅が噂される中、そう言っていち早く残留を表明したのはエスパルスのプロ契約第一号選手、大榎克己だった。
全国区でなくていい。まず地元に愛される、地に足をつけたクラブでなければいけない。あのときがあったから、今がある。自分の血が本当に橙色に変わったのもこの頃からだ。



エスパルスという名前で良かった。オレンジで良かった。常緑のベストコンディションを保つ日本最高のピッチ。子どもから大人まで誰もが一緒に手拍子を打って歌いながら参加できる応援。愛嬌あるマスコットキャラクターの存在感はピカイチだ。これらは大手広告会社や大企業の広報室で決められたコンセプトではない。アウスタ日本平エスパルスを愛する者が自分たちの感性で生み出したオリジナルデザインで彩られている。作者不詳の匿名の、オレンジ愛好者の生理的本能的な現象なのだ。
近年の選手個人チャントの充実ぶりにもそんな良き伝統の息吹が感じられる。最高傑作は「オカザキGet Goal」。「岩下敬輔、ともに闘おう」や「清水の光、兵働」も、つい口ずさんでしまう良い歌だった。応援歌をBGMにして選手の記憶をよみがえらせることができるのはエスパルスサポーターの特権である。おそらく現在最も愛されて歌われるのは「大前元紀、We love you so」だ。オレンジに染まるあの西サイドスタンドの同志たちの中にユーモアセンスに富むなかなかのアイデアマンがいるようだが、自然発生的に「アウスタで生まれた歌」ということで良いのである。


     


オレンジウェーブのパフォーマンスに続いて‘雷神’のファンファーレが高らかに鳴り響く瞬間、一気に血が逆流して橙色に煮えたぎるのは今も同じだ。でも残念なことに、オレンジ濃度が沸点に達することなく、試合経過とともに冷めていってしまう試合がときどきある。
自分なんかはもういい。でも、清水静岡の子どもたちが将来エスパルスに入りたい、そう思える試合を見せて欲しい。一つ一つのプレーに、一試合一試合にスピリットをこめて大事に戦う。それこそが清水の選手の唯一の義務だ。失点したって負けたって、本当はそんなのたいした問題ではないのだ。
われわれが生きている今がスタンダードとなり、歴史となり伝統になっていく。それはプレーヤーもサポーターも変わりはない。エスパルスの名を誇り高いものとして、次代につないでいこう。その環境を築いていくのは今日の一歩一歩である。



エスパルスをサポートしているのはゴール裏に陣取る血気盛んな若者たちばかりではない。
今もアウスタ日本平には多くのお年寄りが足を運ぶ。他スタジアムのことは知らないが、おそらく清水の観客平均年齢はJクラブ中もっとも高いのではないかと思われる。首にタオマフをひっかけて黄色かオレンジのリュックを背負い、アウスタへの長い坂道をものともせず上がっていく小さな後ろ姿のなんと頼もしく愛しいことか! 孫のような選手たちのプレーをいつも温かく見守っていてくれる地元の人たちがいて、清水エスパルスは維持されてきたのだ。
あの人たちを失望させないように。一日でも早く彼らのもとにシャーレを、カップを届けてほしい。日本平スタジアムがいつも二代、三代の家族の笑顔であふれる場所であり続けますように。新たな幸福な記憶を刻むリレーの場所でありますように。そう願わずにいられない。エスパルスの歴史は、われわれの生の記録でもあるのだ。



自分もいつかオレンジのシャツを脱ぐときが来る。そのときしたためる遺書には次の一文を加えるつもりだ。
 ― 「エスパルスのユニフォームも一緒に焼いてくれ」
その日までずっと。これまでも、これからも ― One team, One mission, and One love.