ショーン・エリス / 狼の群れと暮らした男


【 ショーン・エリス / 狼の群れと暮らした男 / 築地書館 (320P) ・ 2012年 8月(130202-0207) 】

THE MAN WHO LIVES WITH WOLVES by Shaun Ellis 2009
訳:小牟田康彦



・内容
 野生狼との接触を求めロッキー山脈の森の中に決死的な探検に出かけた英国人が、飢餓、恐怖、孤独感を乗り越え、ついには現代人としてはじめて野生狼の群れに受け入れられ、共棲を成し遂げた希有な記録を本人が綴る。


          


昨年夏の刊行時から読もう読もうと思っていたのに遅くなってしまった。現代人が野生オオカミの群れに混じって暮らしたという話に何となく「ワイルド自慢」を警戒していたからだ。
オオカミに接触した記録にはヴェルナー・フロイント『オオカミと生きる』があるが、あれはあくまでも人間が設定した保護区内の、人に慣れたオオカミの観察記だった。ローマをつくったロムスとレムルスが雌オオカミに育てられたという神話やオオカミ少女アマラをはじめとする伝承の数々は、真偽はともかく、生まれたての無垢な赤ん坊なら野生動物に救われることもあるだろうという人間の希望的観測の範疇にある。だが、はたして現代文明にまみれた成人男性が野生オオカミの群れに受け容れられるものだろうか?
著者の英国人ショーン・エリスは生物学者ではないし、動物に関わる専門職を仕事にしていたわけでもない。それなのに、というか、それゆえに、というべきか、彼は充分な知識もないままオオカミへの共感だけで荒野に向かう。

 私がこのオオカミ家族の中にいることを許され、ささやかながら彼らの仲間になりつつあるという感覚を味わえるとは何たる特権であろうか。あんなに長い間私にとって恐ろしかった動物が、今はいなくてはならない存在になり始めていた。私は彼らと一緒にいたかった。しかし、彼らは私のことをどう思っているのだろう? 私をどんな動物だと思っているのだろう?


はじめにエリスの半生が語られる。幼少期を過ごしたのはイギリスの田舎、ノーフォークの農場で、祖父母に育てられた。隣家は数マイルも離れていて、豊かな自然のなかで彼の遊び友だちはキツネだった。ノーフォークは『わたしを離さないで』の‘イギリスのロストコーナー’、「いつか必ずノーフォークに行くぞ」のノーフォークである。
英軍に勤務するかたわら地元の自然動物園(サファリパークのようなもの)でボランティアをするうちにオオカミへの憧憬が抑えきれなくなり、オオカミ再導入が進められているアメリカ・イエローストーン国立公園を訪ねる。そして先住民の指導を受け、オオカミとの出会いを求めて広大なロッキー山脈に単身踏み入る。
どうしてそんなことをという疑問に明快な答えはない。「そんなこと=危険なこと、無謀なこと」という現代人的な物差しをこの人は持っていなかったし、またゼロではないが失うものも多くはなかった。 



オオカミが生息する山とはいっても、すぐに遭遇できるわけではない。オオカミの側が興味を持ってくれなければ彼らが人に姿を見せることはないのだ。エリスがやっと一匹のシンリンオオカミを目にしたのは、小川の水を飲み、仕掛けた罠にかかったウサギや木の実草の実を食べ、着っぱなしの衣服がボロボロになった頃だった。つまり、人間の匂いが風と土と草木に洗われて完全に消えた時だった。
何日かおきにそのオオカミ(おそらくベータオオカミ)が姿を現すようになり、さらに数週間かけて少しずつエリスに近づくようになる(実はずっと観察されていたのだが)。やがてそいつが群れを連れてやってきてアルファオオカミに紹介され、エリスは手荒い歓迎を受けることになるのだが、野生動物が一個の人間を自分の敵ではなく無害な一匹であると認識してくれるまでの長い時間を思うと気が遠くなる。
野生のオオカミとコミュニケートしようと思ったら、金属やプラスチック、人工香料の匂いをさせてはならない。帰国したエリスは自然動物園のオオカミの柵に入るとき、調理された食べ物は一切口にせず、生肉しか食べない。文明の皮を脱ぎすてないとオオカミには信頼されないということである。

 私は挑戦を受けて立つ決心をした。私は両手で口の周りを囲み、オオカミが望んでいる(と思った)返答をした。息を殺し心臓をどきどきさせながら待った。数時間とも思えるような数分が過ぎた。すると突如沈黙を破って、首の後ろの毛が総立ちになるような、長い甘美な遠吠えが帰ってきた。返答がきたのだ。ほとんど信じられなかった。それは奇跡だった。


さらにオオカミの群れに加えてもらおうとするなら、咬まれて服従の姿勢を示さねばならない。彼らは挨拶がわりに咬み合う。向こう脛ぐらいならまだしも、顔面をオオカミの強靱な上顎と下顎にはさまれても、じっとしていなければならない。まだ目も開いていない赤ちゃんオオカミだって牙だけは一人前で、食べ物をねだってその鋭い歯でエリスの口を強く噛んでくる。悲鳴を上げたり暴れて逃れようとしようものならその場で一巻の終わりである。そういう厳しいテストというか試練を経て‘オオカミの作法’を身につけたエリスはめでたく一員として認められ、狩りから帰った群れが持ち帰ったアカシカの足をプレゼントされるのだった。
プロの文筆家の文章ではないので、読みにくい部分もある(翻訳者は苦労したのではないか?)。生物学者ではないので記録も不確かである。読み物としては欠点の多い本といえるだろう。
しかし、気楽に携帯カメラを構えて記録できる世界にオオカミはいないということの逆証明でもある。高性能カメラによってあらゆる映像記録を見ることができる現代だが、映せない、映っていてもわからないことがオオカミの世界にはある。地球上には科学と文明が立ち入れない領域がまだあることをわれわれは忘れがちだが、かつては人間だってそういう世界の住人だったのだ。
イギリスに戻って自然動物園で飼育オオカミを担当するようになったエリスが「遠吠え」を使って群れをコントロールする経緯も興味深い。遠吠えという‘野生のコード’によって半野生の群れに緊張感と結束を持たせようとするのだが、それはオオカミを人間に必要以上に慣れさせないためでもあった。エリス自身は「オオカミになりたい」と願った人間なのだが、人間は自然界によけいなことをすべきではないし、オオカミは人間界に降りてくるべきではない、そのジレンマ。エリスは人間一般的には豪胆な冒険者だが、オオカミに対しては自分の人間性を徹底的に封じこむよう細心の配慮をする。その厳格な境界を絶対に踏み越えない姿勢が良かった。