原田正純 / 水俣病


水俣病研究の第一人者である医師・原田正純さん(1934−2012)が亡くなったのは昨年六月。翌七月、特措法による水俣病被害者救済の申請受付が締め切られた。
自分は半世紀以上前の水俣病という公害のことを全然知らない。子どもの頃に見たニュース映像はぼんやり覚えている。それと、学生時代にユージン・スミスと桑原史成の写真集を見たぐらいだ。福島原発事故以来、原田さんの名前を耳にすることが増えたので読んでみる。



原田正純 / 水俣病 / 岩波新書 (244P) ・ 1972年(130208-0211) 】

原田正純 / 水俣病は終わっていない / 岩波新書 (227P) ・ 1985年(130211-0213) 】



・内容
 公害病の中でも大規模で最も悲惨なものの一つ、水俣病。苦痛に絶叫しながら亡くなった人々や胎児性患者のことは世界的にも知られているが、有機水銀によるこの環境破壊の恐るべき全貌は、いまだに探りつくされてはいない。長年患者を診察してその実態の解明にとりくんできた一医学者の体験と反省は、貴重な教訓に満ちている。


          


昭和三十一年(1956)、熊本県水俣市で五歳と二歳の姉妹が原因不明の奇病であいついで入院した。隣の家の少女も同じ症状で入院、その後死亡。水俣病として初めて公になったのがこの年だが、水俣の漁村ではそれ以前から神経異常の症状が多発し、死者も多かったという。だが一部局限的な現象だったため、地元では伝染病か、あるいは‘たたり’と思われていたという(血統だ貧乏のせいだともいわれ、発症者は差別された)。
不知火海の内湾、水俣湾にチッソの化学工場から有機水銀を含む廃水が無処理で(!)放出されていた。漁村の人々は汚染された魚貝類を日常的に多食していた。チッソは排水を市北部の水俣川に変えたため被害は不知火海沿岸全域に拡大していたが、政府が正式にこれを公害認定したのは、発見から実に十二年後の(!)昭和43年(1968)だった……
今、戦後の日本を振りかえるとき、国際社会に復帰したこの国がめざましい復興と発展を遂げたことばかりが自賛し喧伝される。「もはや戦後ではない」、神武景気いざなぎ景気東京オリンピック開催、高速道路と新幹線の開通、数多のヒーローたち。しかし、まったく前近代的としかいいようのない非科学的事態も同時発生していたことはほとんど伝えられない。

 「同じ魚を食べて、ある人は水俣病、ある人は水俣病でなかと、先生たちは言う。むずかしか医学の問題はわからんばってん、水銀はこの辺の人の体のなかに全部入っとるとばい。それはまちがいなか。それがどんなふうに人の体にあらわれるかということがわかっとるとですか。水俣には素人目にも水俣病と思われる人がまだいるが、みんな何かほかの病名がついとる。医者は、水俣病は二十八年から三十五年までにしか起こっとらんと言うけれど、それはどういう理由からですか」などなど……。私はいわゆる専門家として、この医学には素人の男の質問に答えきれないことに屈辱を感じた。なんとしてもこの男の質問に答えねばならないとも思った。


人権、公害、環境汚染の認識が低かった時代とはいえ、国をはじめとする行政と当事者であるはずの企業のあまりにお粗末な対応に開いた口がふさがらなかった。「無差別殺人」という単語が浮かんだ。情けなくてやりきれない気持ちになって何度もため息をついた。
他方では原子力発電を導入しようとする大科学時代に、目の前の海で獲った魚を食べていた人が続々と死んでいくのが何年も放置されていた。人間ばかりではない。大量死した魚の腐臭が湾内に充満している。カラスが木に激突して落ちてくる。狂ったネコが海に飛びこんで溺れ、かまどに突っこんで火だるまになる。水俣周辺のネコは飼い猫も野良猫も全滅した(!)。早くから自然界に異変は現れていて食物連鎖の破壊が予見されたはずなのに、大企業チッソは旧軍が捨てた爆薬が原因だなんてでたらめを言って開きなおる。メチル水銀が原因ではなく、死んだ魚を食べた住民が悪いのだと実に科学的な反論を並べて自らの過失を認めようとしなかった。原因不明のまま何人死んだのか、見殺しにされたのか。不知火海周辺住民の一斉健康調査は昭和46年まで行われなかったという(それも熊本大研究班が中心になって、だ)。
当初、水俣病の被害者認定は昭和28〜35年の発症者に限られた。35年以降は発生していないことにされたのだ。そんなわけないだろうと怒りに震えたのだが、五十年前とはそんなに幼稚な愚かしい時代だったのだろうか。
熊本大学医学部の学生だった原田正純氏は一方的に終わったことにされたこの公害病の潜在患者を見棄てられなかった。



原田さんのグループは水俣周辺を訪ねまわって患者の掘り起こしを始めた。ある家の庭で兄弟が遊んでいた。二人とも明らかに挙動がおかしい。母親に聞くと「兄は水俣病だが弟は生まれつき(脳性小児麻痺)」という。下の子には魚を食べさせたことはないから水俣病ではないという。当時の医学では毒は母親の胎盤を通過しないというのが常識だったが、原田さんの目にはその子も水俣病としか見えなかったし、母親も異常に映った。そして世界で初めて胎児性水俣病(母親が摂取した有毒成分が胎児に蓄積する)の存在を明らかにする。
公害認定後、今度は水俣病の診断基準をめぐって、水俣病と診断されない患者を救済する長い戦いが始まったのだった。「戦い」なんて言い方はこの心優しき医師の本意ではないのかもしれないが、それはまぎれもなく前代未聞の公害病、底知れぬ水俣病の実態を解明しようとする果てしない「戦い」だった。
初期に水俣病と認定されたのは、しびれ・ふるえ、運動障害、言語障害視野狭窄、嚥下障害等の典型症状がすべて発現している、つまりひとにぎりの重症患者だけだった。家族で同じものを食べていながら子どもだけが水俣病で親はそうではないとは考えにくいが、当時は自己申告のみで追跡調査はまったく行われなかった。他の疾患がある場合、遅発性、不全型、不顕現型など鑑別が難しい場合も審査されることすらなく排除されていた。仕事に行けない、就職できない、縁談に関わる、子どもがいじめられるなどの理由から申告しないまま死亡した人も多数いて(自殺者も無数)、全体の被害者は未だに把握しきれないまま現在に至る。
「原田はなんでも水俣病にしてしまう」という批判中傷を受けながら、原田さんは一人ずつ患者宅を訪ね、家庭と生活環境を観察したうえで診断していった。

 部屋のすみに、ぼんやりと婆さんが座っている。私が大学の医者というのでおどおどして、頭を下げるばかり。「爺ちゃんは水俣病と思いますから、申請してごらんなさい」と言っても、もちろんその申請のやり方もわからないのである。やっと口を開いた婆さんの言葉の、なんと不明瞭なことだろう。ちょっとお婆さんもおかしいよ、ということで診察すると、これまた水俣病の症状が全部そろっている。


企業責任、予見不可(想定外)、工場排水のたれ流し、発症時期と場所の問題、恥知らずの御用学者、被害者認定の難しさ、切り捨て、棄民政策…… 最近もどこかで見たような事象がずらずら出てくる。これは現在起きていること、これから起こるであろうことの前例のはずであり縮図でもありそうなのだが、‘恥部’をなかったものにしようとする国の体質は変わっていないようにも思える。水俣の教訓は現在に活かされているのだろうかと疑いたくなる。(自分の無知を恥じるしかないが、広島と長崎の被爆者認定にも同じような問題があったのではないかと想像する)
昨年、原田さんの死後に再放送されたETV特集「“水俣 未来への遺産”」で強く印象に残っている原田さんの言葉が二つある。
「中立」について。対等な二つの勢力の間なら中立という立場はありうる。しかし片方が強大な権力側だったら、無批判の中立は権力に加担することになるのだという(7−3、8−2の横棒グラフの真ん中の5は大きい方に含まれる)。医師が患者側に立つのは当たり前で、それ以外の「中立」なんてあり得ないでしょうと、優しく、しかし断固とした口調で話されていた。
それから「一枚のカルテの裏側を読む」ということ。書かれていることから患者の生活環境を想像すること。料理ができる、掃除もできるとカルテには書いてある。しかし実際にはその患者は野菜炒めしかつくれなかった。手が震えるから包丁の切り傷だらけで卵を割ることもできない。部屋の真ん中はきれいだが四隅はひどく汚れている。明らかに運動障害なのに、見逃し見落としがある。そんな事例ばかりなのだと疲れた笑みを浮かべるのだった。
水俣病をただ加害者と被害者の問題としてではなく、社会の問題として捉えることは、原田さんにとって個人的に「何のための医学か」を深く問い直すきっかけになった。行政と企業だけでなく、自分たち医師の責任も反省しなければならなかった。研究室にこもって実験ばかりしているより、現場を回って患者の生活環境に触れるのは楽しかったともいう。この人は機械的に症例を当てはめて被害者認定をするだけの医師ではいられなかった。医師としてというより、患者と同じ人間として。脳と肉体を傷つけられた患者は、同時に心だって深く傷ついていることを理解していた。
64歳で退官するまで肩書きは助教授のままだった。その間、国からの研究補助費は一円ももらわなかったという。


水俣病』は昭和47年(1972)刊。その後の訴訟の混乱と認定制度の破綻、社会運動の広がりを記した『水俣病は終わっていない』は昭和60年(1985)刊。不治の病を背負わされて生まれてきた子らが苦しみながら成人して自立、社会復帰を試みる姿を温かい目で見守る。胎児性水俣病の子を産んだ母親の有名な証言「この子は宝子」についても触れている。
水俣病とは一疾病ではなく、実に社会病なのであった。現在の原発事故と放射能汚染が同じであるのは言うまでもない。

 胎児性患者、上村智子ちゃんは昭和五十二年十二月五日、二十歳の短い生涯を終わった。お母さんの良子さんの口ぐせは「この子は宝子ですばい」であった。その理由はいくつかあるが、一つは「この子が私の水銀を全部吸いとってくれたので、私はなんとか元気で、そのあと六人の元気な子どもたちを生むことができた」ということで、智子がみんなの健康を保障したのだという。


自分が買ったのはいずれも2012年の重版である。
続けて石牟礼道子苦海浄土』を読む。