石牟礼道子 / 苦界浄土

石牟礼道子 / 苦界浄土 わが水俣病(新装版) / 講談社文庫 (416P) ・ 2004年(130214-0217) 】



・内容
 工場廃水の水銀が引き起こした文明の病・水俣病。この地に育った著者は、患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った。本作は、世に出て三十数年を経たいまなお、極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳を訴えてやまない。末永く読み継がれるべき“いのちの文学”の新装版。


          


水俣病は、自然界に存在しない物質を平然と海に流し続けた化学工場と、それを見て見ぬふりをしていた行政による破廉恥な犯罪だが、社会の感度の鈍さもそれを助長した。現在ならば、地方のどんな小さな‘ネタ’でもマスコミは拾おうとするだろうし、公的機関に訴えて応じられなければ個人が自らネットメディアを通じて情報発信することも常態化している。
しかし昭和三十〜四十年代はまだそうではなかった。「もはや戦後ではない」、所得倍増計画東京オリンピック、それに安保闘争。浮わついた時代だったのだろうか。熊本の僻村で何が起こっているかなんて、日本人の大多数は関心がなかった。
『苦界浄土』が講談社から刊行されたのは、水俣病がやっと公害病認定された翌年、昭和44年(1969)だった。(三年後に文庫化、本書は2004年刊の新装版)

 人びとはお互いの、〈ながくひっぱるような、甘えたようなもののいい方〉や、つんぼぶりや、失調性歩行に困り、いっそ笑い出したりするのであった。患者たちは、先生方のヒューマニズムや学術研究を、いたわっているのにちがいなかった。この、わたしの生まれ育った水俣という土地には、昔からたとえばそんなふうに、遠来の客をもてなすやり方がいろいろとあるのである。


水俣川の下流のほとりに住みついた貧しい主婦が、地元に密やかに進行している得体の知れぬ現象に感応し、「悶々たる関心と、ちいさな使命感を持ち、これを直視し、記録せねばならないという盲目的な衝動」に駆られてせっせと鉛筆を走らせはじめた。市立病院水俣病特別病棟に患者を見舞い、部落に足を運んで在宅患者と家族の声を聞いた。デモがあると聞けば、控えめに最後尾に追き歩き、集会があれば関係者のような顔をしてまぎれこんだ。
文芸サークルで詩と短歌をたしなんでいたこの主婦は、しかし始めから自分の文章がこのような作品にまとまるとは考えていなかっただろう。ましてや中央の大手出版社から単行本として刊行され、自分が一人前の作家として扱われるようになるとは夢にも思っていなかったにちがいない。なぜなら、彼女もまた知られざる「水俣」の人だったのだから。絶望の声は届かない、誰も助けには来ない、近代から取り残された見捨てられた辺境の一人だったから。



昭和45年(1970)、この作品が第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれるも著者・石牟礼道子さんは辞退した。患者の痛苦を書いた自分が個人的な賞を得ることを受け容れがたく感じる心情はなんとなくわかる。だが、そもそも彼女はこれを「ノンフィクション」として書いたのだろうか。
巻末の渡辺京二氏の解説によれば、これは聞き書きでもなくルポでもない、「石牟礼道子私小説」なのだという。「わが水俣病」とは文字どおり「石牟礼道子水俣病」ということでもあるらしい。
彼女は記者のように質問事項を用意して患者に面会したのではない。加害側と被害者側の双方を公平に取材しているわけでもない。ジャーナリストの態度としては失格だが、もし彼女にそれが許されるとしたら、「記者章」をぶらさげた標準語の取材者になっただろうか。記者会見場の原稿棒読みの公式見解と空疎なやり取りは彼女には我慢ならなかっただろう。
伝えるという使命感を動機としながら文中にほとんど「私」を意識させない。質問するでもなく対話するでもなく、糾弾するでもなく告発するのでもなく、ほとんど彼女は彼女の愛する下層細民の聞き役に徹して姿を消す。



おそらく石牟礼さんは、自分が幸いにして五体満足でいられる不条理をどこかで不運と感じていた。多くの健康な水俣市民が一部の水俣病患者を「市の恥」と蔑んだのとは逆に、彼女には水俣市民なのに発病しないでいる自分を恥じる部分があったのではないか。脳を水銀に冒され、痙攣した四肢が勝手に踊り、言語不明瞭に「犬吠え様の叫び声」をあげる患者の姿に自分を重ねて幻視しては震撼し、そして恍惚とさえしたのではないか。
自分のそんな想像は過敏だとしても、対象に没入した文章からはある意味での‘憑依’が感じられる。口を封じられ肉体の自由を奪われた者の呪詛と祈りが、石牟礼さんの指先に宿って紙の上を滑らせた。病室で、粗末な荒ら屋で、目にした光景を自宅に持ち帰った彼女はくり返し咀嚼して追体験した。そうとも考えなければ説明がつかないほどに、水俣弁による患者家族の独り語りはクールでスタイリッシュだ。

 「やってしもうた……」とは水俣病症状の強度の痙攣発作である。のちに彼女は仕方がないというふうに、うっすらと涙をにじませて笑う。
 予期していた医師たちに三人がかりでとりおさえられ、鎮静剤の注射を打たれた。肩のあたりや両足首を、いたわり押さえられ、注射液を注入されつつ、突如彼女の口から
「て、ん、のう、へい、か、ばんざい」
という絶叫がでた。


枯木のような手足を折り曲げてじっと横たわるわが子を見つめながら、この子は本当に自分が産んだ子なのだろうかと母親は自問せずにいられない。老い先長くない年寄りが寝たきりの孫の面倒を見ている。自分より先にこの子にお迎えが来てくれないものかと願っている。病室の寝台の上しか知らないで緩慢な死を生きている少女の顔は、顔だけは年々美しく娘らしくなっていく。気丈だった女が、あの男に嫁いだばかりにこんな病気になってしまったととうとう嘆く。
不思議なことに、彼らが憤怒と怨みを吐けば吐くほど、やすらぎにも似た感情が高まってくるのだった。彼らの語りからまざまざと立ちのぼってくるのは、故郷に土着した生活の濃厚な匂いばかりである。イワシの群れが海面の色を変えた海をもう見ることはできないが、かつて水俣の海がどのようなものだったかが生々しく再現される。そして、そのような風景は、われわれの祖先だってきっと見ていたにちがいないのであって、だから水俣に縁もゆかりもない自分の中の遺伝子がちょっとばかし騒ぐ気配を感ずるのである。
だとすると、これは水俣病事件のルポルタージュ風な形態ではあるものの、同時に民俗学的な記録とも水俣風土記ともいえそうなのである。水俣病なんて存在しないのだとしぶとく粘った者も、患者の前をわざとらしく鼻をつまんでそそくさと通りすぎた者も、やっと補償金をもらえた患者を嫌みったらしくねたんだ者も、企業に寄生しなければ生きられない連中も、みな否応なくこの一部なのだ。
患者の代弁者となった著者は伝承者でもあった。チッソの水銀は海を殺し、何の罪もない漁民の脳を傷めて言葉と肉体の自由を奪ったが、同時に彼らが生きてきた風景と記憶をも葬り去ろうとするのであった。石牟礼さんが患者の沈黙と無表情から紡いだ言葉は哀しいがゆえに優しく、優しいがゆえに鋭かった。そしてささやかに彼らの生活権と生存権を保証したのである。
刊行当時、水俣病患者が自らの口で全国に苦境を訴えるということは珍しかったにちがいない(言語障害水俣病の典型症状)。あるいは興味本位に扱われたか。この作品は導火線だったのかもしれない。できるものなら、これを1969年にライブで読みたかった。そう思わずにいられなかった。