荒畑寒村 / 谷中村滅亡史


この本も2012年刷。原田正純さん、石牟礼道子さんのもそうだった。震災以降あらためて、いかにこれらの本が読まれているかを思う。



荒畑寒村 / 谷中村滅亡史 / 岩波文庫 (208P) ・ 1999年(130219-0222) 】



・内容
 田中正造から足尾鉱毒事件を世に訴えるために是非書いてほしいと依頼された荒畑寒村(1887−1981)が、明治40年(1907)土地収用法によって谷中村が強制的に破壊されるという事態に接して、一気に書き上げたドキュメンタリー。谷中村滅亡の惨状を後世に伝えようとする著者の熱意がひしひしと伝わってくる社会科学の古典。(解説=鎌田慧


          


この一月に刊行された梯久美子『百年の手紙』(岩波新書)、奇しくも冒頭に紹介されているのは足尾銅山鉱毒被害者救済に奔走していた田中正造明治天皇への直訴状だった。そこに書かれていた農漁民の苦境は「震災以降の福島の状況に重なる」と梯さんは書いているのだが、いやいやその前に水俣病事件がある、ということで手にした本書。石牟礼道子『苦界浄土』でも触れられていたので読んでみることにしたのだが……
薄々想像はしていたものの、水俣との類似に驚くばかり。渡良瀬川が汚染されて沿岸住民の健康被害と生活苦をもたらす。抗議を受けて銅山側が設置した浄化装置は実は形だけの見せかけにすぎなかった。以後は苦情や訴えをいっさい申し立てないことを条件にわずかばかりの示談金を支払って事件は解決したことにされた…… これら足尾で起きた悲劇は五十年後の水俣で、そっくりなぞるように繰り返されたのである。チッソ幹部のなかに足尾鉱毒事件をよく知る者がいたのではないかと勘ぐりたくなるほどだった。

 あゝ我が筆よくこの滔々天に漲ぎる権力者の大罪悪を、永劫に滅びざる宇宙の歴史に刻むべき、正義の鉄筆たるに適すべき乎。請う吾人をして、以下章を追ふて、この驚倒すべく、痛憤すべく、飲泣すべき、為政者資本家らの大陰謀、大罪悪を爬羅剔抉して、彼らをして完膚なからんことを期せしめよ。


代議士田中正造に「一書を著して世に訴えよ」と依頼されて荒畑寒村が記した本書は1907年に平民書房から刊行された。平民書房とは平民新聞系だろう。このとき、寒村は弱冠二十歳(!)。大逆事件(1910年)、甘粕事件(大杉栄虐殺、1923年)はまだこの先のことだが、彼は社会主義運動のプリンス的存在だったのだろうか。
明治後期の漢文まじりの文章だから始めは読みにくさを覚えるも、慣れてくると苦にならなかった。義人田中正造のお墨付きを得ていたせいもあるだろう、若い勢いにまかせ、使命感と義憤に燃えた彼の筆致は烈火のごとくに走り、熱い。時まさに谷中村が消滅せんとする終局でもあって、「ああ、……」という詠嘆調で退去を迫られる住民の苦境を訴え、「見よ、……」と絶叫調で断固として政府、官吏、資本家である銅山主の癒着ぶりと住民軽視の横暴非道を厳しく糾弾する。
もちろん書かれている事実に驚かされ憤りを感じるのだが、正直に書けば、この青年寒村の‘若気の至り’的な血気盛んな文章は頬笑ましくも痛快なのである。こんなことを書けば官憲に睨まれることは重々承知であったろうし、出版されても発禁をくらうのは予期していたはずだ。だが、住民の惨状を前にして冷静でなんていられない、書かずにいられようか。その熱情の奔流にただただ打たれた。 



政府直轄地だった足尾銅山が民間の古河市兵衛古河鉱業)に格安で払い下げられ、大鉱脈が見つかると生産が急拡大。足尾は日本最大の銅の産出地となったが、精錬所から出る硫黄分を含んだ排煙が周辺の木々を枯らし、鉱毒を含んだ多量の廃石は渡良瀬川に廃棄されていた。渡良瀬川の魚は死滅、流域の土壌は荒れ作物は育たなくなった。また濫伐により水源である山の環境が変わったため洪水が頻発した。流域住民のたび重なる抗議と陳情のたびにおざなりの対応をしていた政府と県は、いよいよ手に負えなくなると、鉱毒問題を治水問題にすり替え、一方的に谷中村を遊水池にするとして強制廃村にした。
富国強兵、日露戦争の時代。谷中の住民を立ち退かせるために役人自らが住民たちが築いた堤防を破壊して、わざわざ洪水を招いて村を水没させたというのだから呆れて言葉もない。環境破壊の概念すらなかったであろう当時の、起こるべくして起こった人災であった。

 彼らは実に憐れむべく、悲しむべき犠牲なり。然り彼らは、実に現代の社会制度、黄金政治、資本家万能の時代が産出せる、悼ましき犠牲たるなり。あゝいたましき犠牲の名よ、谷中村! 吾人この名を口にして、唖然として笑ひ、潸然として泣く。


本書は刊行後、即発禁処分とされた。長らくの絶版期間を経てあらためて日の目を見たのは1963年(昭和38)、明治文献叢書の一巻として復刻されたのだった。石牟礼道子さんが手にしたのはその版だったろうか。若き日の寒村翁が「我が国最初の公害事件」の記録に刻んだ激情を胸に秘めつつ、石牟礼さんは静かに、しかし寒村同様に被害者側に寄りそいながら『苦界浄土』をしたためたのである。
どうしても足尾−水俣−福島の連想を断てない。ある地域の自然環境を破壊して住人の健康を脅かし生活の糧を奪い、果てには故郷を捨て移住を余儀なくさせるという点においては、科学が飛躍的に進歩したこの百年のあいだに何も変わっていないではないかと思わされる。同時に、ここに叩きつけられるように書きつけられた清廉無垢にして直情的な‘怒りの表現'が、「反体制」「社会主義者」のレッテルを怖れる日本人は下手になる一方だとも感じられてしかたがない。
悪政を世に知らしめんとする社会正義的な動機と個人的な痛憤がないまぜになった弾劾文は、ときに政府役人の暴虐ぶりを愚弄嘲笑する挑発的なもので、「天地の歴史に刻んで永久に記憶すべし」、明治政府と資本家に「火と血の復讐を宣告せよ」とまでに激越だ。そして、政府の虐待、迫害、軽侮、圧政が彼らの忌み嫌う「凶暴なる無政府党を生むのだ」という言葉どおり、この後荒畑寒村社会主義運動に参画していく。本書は寒村の決意声明であり挑戦状のようにも読める。
幸徳秋水大杉栄らが若くして官憲に殺されたのに荒畑寒村が昭和後期まで生きていたというのは、ちょっと不思議な感じがする。この人が水俣病事件や原発をどのように見ていたのか、とても興味深い。また折を見て彼の著作を読んでみたい。