梯久美子 / 百年の手紙

梯久美子 / 百年の手紙 ― 日本人が遺した言葉 / 岩波新書 (256P) ・ 2013年 1月 】



・内容
 田中正造寺田寅彦宮柊二、端野いせ、吉田茂中島敦横光利一山田五十鈴知里幸恵室生犀星……。戦地からの伝言、権力に抗った理由、「遺書」、友人への弔辞、そして恋人、家族へ……。激動の時代を生きぬいた有名無名の人びとの、素朴で熱い思いが凝縮された百通の手紙をめぐる、珠玉のエッセイ。


          


2011〜12年にかけて中日新聞東京新聞)夕刊に連載された「百年の手紙」が新書として刊行された。
「手紙は個人の心情を綴るものでありながら、書かれた時代を鏡のように映し出す。もっともプライベートな文章が、激動の時代にあっては、貴重な歴史の証言となるのである。」 ― 著者あとがきの言葉が本書のすべてを物語っているといってもいいだろう。
田中正造明治天皇への直訴状(1901)からいじめ苦で自殺した男子中学生の遺書まで。政治家、軍人、著名作家から無名の人まで、二十世紀の百年のあいだに書かれた日本人の手紙(遺書や弔辞、追悼文を含む)百通あまりを紹介し、その背景を解説する。戦後すぐに昭和天皇が皇太子(現天皇)に宛てた手紙もある。事件の当事者が心許せる親しい人に書き送った私信の中で何を語っていたか。どんな言葉を使っていたか。そこからは公式発表には現れない生々しい肉声がよみがえってくるのだった。

 検閲がきびしく、手紙は差し出し不許可となることもあった。妻から夫への手紙の最後に、「小石、小石」と書かれているものがあるが、これは「恋しい、恋しい」の意で、検閲を気遣って当て字にしたものだという。遠い戦地からの手紙は、夫への恋文でもあった。


全編を俯瞰してみて、やはり強い印象を残すのは二十世紀前半が戦争の時代だったということ。軍国主義下には手紙も検閲されたのであって、官憲の目を逃れるために、赤ん坊のおむつに忍ばせたり石鹸の中に閉じこめたり眼鏡の蔓に折りこまれた手紙もあったという。
シベリア抑留から帰国する際、日記などの記録はすべて没収された。遺書でさえも。現地で死んだ男の遺言を仲間が一文ずつ暗記して全文を家族に知らせた「山本幡男の遺書」。
「管野すがから杉村縦横へ」は大逆罪容疑で収監された管野スガが朝日新聞の杉浦楚人冠に盟友・幸徳秋水の弁護を依頼する手紙。その現物は一見ただの白紙である。光にかざしてみると文字が透けて見える。針で小さな穴が無数に穿たれて文字になっているのだった! 死刑を覚悟していた管野が幸徳だけは救われてほしいと獄中で必死に‘縫った’書簡。その強さ、たくましさと同時に痛ましさ。一方、手紙一通も許さない国家権力を鉄壁と称すべきか否か。この篇は何度読み返しても、いろいろな思いがぐるぐると交錯する。しかも、この手紙が発見されたのは2006年のことだというのだからさらに驚く。
戦時中、召集令状を受け取ったのは男ばかりではなかった。乳飲み子がありながら従軍看護婦として中国に渡った女性が内地の夫に送った手紙。沖縄戦で女子学徒隊として戦ったのは「ひめゆり隊」だけではない。「ずゐせん隊」生存者が天皇に慰霊碑参拝を訴えた嘆願書。いずれの書簡も重く胸を打つ。


          


安易なまとめになるかもしれないが、二十世紀は「手紙の時代」でもあったということだ。電話も普及していない頃、唯一の通信手段が郵便だった。われわれのご先祖さまはせっせと手紙を書き、誰かからの手紙が届くのを心待ちにしていたのではなかったか。本書に紹介されているのは有力者が毛筆でしたためた漢文調の美文から一市民がカナ文字だけでたどたどしく綴った短信までさまざまだが、そこに軽重はない。遠く離れた家族や友人に向けて、語りかけるように一字一句が大事に書かれ、そして声を聞くように何度も何度も読まれたものだ。
出征した息子に宛てた手紙。戦地から両親を気づかう手紙。届かなかった手紙も無数にあったことだろう。人間魚雷「回天」の操縦士として海に散った若者の最期の手紙には「(両親の)幸福というものから自分を消してください」と書かれていた。
そしてもう一つの背景として気づかされるのは、早死する人が多かったということだ。戦争犠牲者はもちろんのこと、結核、肺病、脚気、伝染病などの疾患で若者も命を絶たれた。作家も例外ではなく、石川啄木は25歳、中島敦は33歳、宮沢賢治は37歳で病死している。
それに比べて現代のわれわれはいかに長寿を生きるようになったことか。 通信が手軽になっていくのと並行して生命は淡白になったともいえるのではないか。手紙の重さは命の重さに比例するのかもしれない。

 この手紙を書いた中野ミエ子は十四歳だった。年端もいかない少女たちが、毎日のように特攻兵を見送り、肉親にその死を告げる手紙を書いていたのだ。
 同じ十四歳の別の女生徒は、特攻兵の父に宛てた手紙の中で、こう書いている。
〈私達は何時も特攻隊の兵隊さん方を見て、こんな立派な身体を皆、海に捨てるのだと思ふと、これも米英の為であると、残念で残念でたまらなくなって、涙でいっぱいでありました〉


百通の手紙を引用する新聞連載のために梯さんはどれだけの資料文献にあたったのだろう(単純に考えても百回分である!)。まずは読書家としてのその仕事に敬意を表したい。
明治から昭和期の文士の手紙も多数収録されていて、文豪の意外な素顔に触れることもできる。重職にあった森鴎外が一人の男に戻って十八歳年下の妻に送った300余通。永井荷風夫婦の恋文みたいな離縁状。子煩悩な父親だった中島敦佐藤春夫芥川賞を懇願した太宰治。そして、岩波茂雄岩波書店創業者)に自著の売れ残りと岩波が出す本の交換を申しこんだ宮沢賢治! 梯さんは書簡集や数々のノンフィクション作品からこれらの手紙を抽出引用しているのだが、辺見じゅん『収容所から来た遺書』をはじめ、その原典も興味深いものが多い。本書はこれからの読書のきっかけにもなりそうである。

中日新聞連載は2011年7月25日に始まった。東日本大震災の余韻醒めやらぬ時期だったこともあり、おそらく企画段階とはちがった意図も加わったのではないか。 「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」 ― 第一回の文末に添えられた田中正造のこの宣言は、連載が始まる直前の有識者会議で坂本龍一さんも引用したのだった。寺田寅彦の震災絵葉書の項はまさに2011年の現実を反映した内容となっている。
現在進行中の震災の事態をにらみながら、一篇の手紙の此方と彼方にあったドラマに思いをはせる作業は、必然的に死を目前にした故人の生き様、危機に直面した日本人の姿と真摯に向き合う仕事になった。そして遠い昔に手紙に吹きこまれた生命をよみがえらせた、その成果がここにある。
今も災中、静かに読むべし。本年ベストの一冊。日本代表の一冊といってもいい。