V.E.フランクル / 夜と霧


学生時代、大学生協主催の「五木寛之講演会」に出席したことがある。たしか入場無料、会場は学食だったと思う。そのときの演題が『夜と霧』だった。最前列に座って真面目にメモなど取りながら、間近にまだ髪が黒かった五木大先生を見つめたのだった。
なのに、『夜と霧』に関してはほとんど記憶にない。いつか再読をと思っていた本である。



【 ヴィクトール・E・フランクル / 夜と霧 / みすず書房 (216P) ・ 1956年(130331-0403) 】

 訳:霜山徳爾


【 ヴィクトール・E・フランクル / 夜と霧 [新版] / みすず書房 (184P) ・ 2002年(130404-0406) 】

 訳:池田香代子



・内容
 本書は、みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した著者の「強制収容所における一心理学者の体験」(原題)である。 「この本は冷静な心理学者の眼でみられた、限界状況における人間の姿の記録である。そしてそこには、人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。だがまたそれは、まだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の病誌である。そしてこの病誌はまた別な形で繰り返されないと誰がいえよう。」(「訳者あとがき」より)


          


二十年経って大人になったんだから今度はちゃんと読めるだろうと楽観して本を開いたのだが、しかし今回も全然ページが進まなかった。1ページはおろか、一行読むのにも四苦八苦する始末。あぁ、思い出した。よみがえってきたのは「読めなかった記憶」であった。
オーストリアユダヤ精神科医が書き、日本の心理学者が訳したこの文…… やたらに「すなわち〜である」が多用される古めかしくて堅い文が全然頭に入ってこない。哲学的だが難解な専門用語が使われているわけではないのに、一つのセンテンスを何回も読み返さねばならない。目をパチパチさせて頑張ってみたものの、読みはじめの初日はわずか4ページで沈没したのであった。
いやいや、極限状況を生き抜いたこの人類史に残る稀有な体験記を風呂上がりの満腹状態でこたつに寝ころがってぬくぬくしておにぎりせんべいとかパリパリ食べながら読んでいるから眠くなるのだと反省し、場所を替え椅子に腰かけ背筋を伸ばしてトライするも、催眠効果はいっかな弱まらないのであった。途中で本に突っ伏して眠りに落ちた回数は自分史上最高記録。終いには眠気を払拭するために「何?何だって?」とぶつぶつツッコミを入れながら読む有様。

 皮下脂肪の最後の残りまで費やされてしまうと、われわれは皮膚とその上にいくらかボロを纏った骸骨のように見えるのだった。そしてその時われわれは如何に身体が自分自身を貪り食べ始めたかを見うるのであった。すなわち有機体が自らの蛋白質を食いつくし筋肉組織が消えていくのである。バラックの仲間は次々と死んでいった。


この状態の予防線として『本は読めないものだから心配するな』を読んだわけではないのだが、先に頭の中にいろいろなものが入っているから新しい情報が入りにくいんですよねー、自分に読めなくても他の人がこれを未来へつなげてくれますよねー、と管啓次郎多和田葉子に助けを求めたくなった。
ラソンでもあるまいし、もはや完読だけが最終目標。目をこすりながら一行ずつ。集中力を保て。邪念を払え。霧の向こうに壇蜜とか考えるんじゃない。苦悩の先にこそ希望があるのではなかったか!
そうしてどうにかこうにか最終行までたどり着いたものの、実感としては「読んだ」というより字面を「見た」。学生時代の初読時とまったく同じ体験を繰り返したにすぎないのだった。『夜と霧』は自分の読書経験上でも「夜と霧」でした…、なんてオチは悲しすぎる。
それじゃあんまりだというんで、読みやすいと評判の新訳版を買ってきたのだった。



何年か前、日曜午前の小川洋子さんのFM番組で本書が取りあげられているのを聴いた。最近放送されていたEテレ「100分de名著」もときどき見たけれど、出演者が流暢に熱く語りあっていたようなことが本当に書かれていたっけと思った。逆に言えば、しっかり読んでいなくても、あれぐらいのことは誰でも喋れるんではないかとも思えた。
本当にみなさんこの本を熟読して読解理解しているのだろうか? 「それでも人生にイエスという」(フランクルの他の著作タイトル)なんて、そんな耳ざわりのいいフレーズでまとめられる内容だっただろうか? いや、読めてないのは脳軟化症が進行している自分だけという可能性だってあるのだが……
だから、五木寛之姜尚中小川洋子をはじめとして頭の良い人たちが絶賛し、誰もが名著と呼ぶような本はあまり読みたくないのだ。自分の感性を疑うはめになるから。

 元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへの逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。


本文中に「体験したことのない人には理解できないだろうが」という注釈がたびたび出てくる。一日一回だけ与えられるわずかなパンと一皿の薄いスープ。チフスが蔓延する劣悪な住環境。苛酷な労働、監視と暴力、ガス室行きの恐怖。特異な状況下で露わになる人間の本性を簡単にわかった気にならない方がいい。自分の共感性を疑うことなく「人間の尊厳」なんて言葉に気安く同調しない方がいい。
この書を語るときに気をつけたいのは、純粋な本の感想から離れて、生き方や苦悩への対処の仕方といった(著者ではなく、読者の側の)思想や哲学らしきものを当てはめ押しつけがちだということだ。それは想像力を伴わない、如何に生きるべきかの一種のハウトゥ本に本書を貶めかねない。そこに「壮大な誤読」の危険性をチラリと感じたりもする。
開きなおって言ってしまえば、ここに書かれていたことは、自分がこれまでに選んで読んできた小説やノンフィクションの本たちの中にすでに書かれていたことなのである。すなわち『夜と霧』を読めなくとも、他の作品で自分は読んで知っていたのである。
願わくば、こんな本が再び書かれない世であってほしい。『夜と霧』が書かれず読まれぬよう、自分は読書をするのだ。この逆説だけが感想だ。もう二度と読むまい。



※ 新版を読んでいて感じたこと。原文はもっと詩的なリズミカルな文章なのではないか? 著者が精神科医であることにとらわれすぎて堅い翻訳文になっているのではないか(特に霜山訳版)? しかし、1956年の初版刊行時、日本が太平洋戦争を戦っていた当時にヨーロッパで何が起きていたか、一般的にどれほど知られていたのだろう。これを紹介せんとする訳者の肩に力が入ったのも想像はつくのだ。