ウィリアム・モリス / ユートピアだより


【 ウィリアム・モリス / ユートピアだより / 岩波文庫 (382P) ・ 2013年 8月 (130921-0925) 】


NEWS FROM NOWHERE by William Morris 1891
訳:川端康雄



・内容
 目覚めると、そこは22世紀のロンドン― 緑したたり、水は澄み、革命ののち人々が選びとった「仕事が喜びで、喜びが仕事になっているくらし」に、驚き戸惑いつつ触れてゆく「わたし」。社会主義者にして美術工芸家モリス(1834―96)のあらゆる実践と批判、理想と希望が紡ぎ出す物語。清新な訳文に、豊富な訳注を付す。


          


ロンドン夏の風物詩の一つとして知られる「プロムス」のフィナーレを飾るロイヤルアルバートホールでのラストナイトコンサートの最後に、英国国歌の直前に必ず演奏されるのが「エルサレム」。ヒューバート・パリーによってブレイクの詩に曲がつけられた1916年以来、皇室行事をはじめ、イングランド代表戦のスタジアムでも愛唱され、英国第二の国歌ともいわれる。
「心の戦いはやめない、この手の剣を眠らせはしない、麗しきイングランドの大地にエルサレムを建設するまでは」と歌詞は詠うのだが、かつて神の御足が踏まれた祖国の大地が「these dark Satanic Mills ― こんな邪悪な工場群」に覆われてしまったというくだりがある。
産業革命後、特にビクトリア朝ロンドンが繁栄を謳歌する一方、街も通りもテムズ川もひどい汚れようだったことは、当時を舞台にした小説、映画でもよく語られるところだが、自分にはなかなか実感として理解できない。荘重にして雄大なメロディに乗せて歌われる「エルサレム」のこの一節も同じである。

 「いや、まあ、たとえ話はやめて簡単に言いましょう ― あなたがえらく買っておられる文学作品を生みだした競争というものが、わたしの国ではいまだにあたりまえのものになっているんですが、そこではほとんどの人間が完全に不幸なのですよ。それに対して、ここでは、少なくともわたしの見た感じでは、ほとんどの人が完全に幸福に見える」


本書、ウィリアム・モリス『ユートピアだより』は、二十二世紀の理想郷へさまよいこんだ十九世紀人が、テムズ川をさかのぼりながら、すっかり様変わりした新ロンドンを見聞していくという体裁の小説。
そこにはかつての文明都市の面影はなく、議事堂は肥料貯蔵所に、大英博物館は骨董品倉庫に変わっていたのだった。工場がなくなり、貨幣経済が駆逐されて、工芸創作と農作業に従事する人々は牧歌的で健康的な生活を営んでいる。労働が喜びとされる社会からは階級制も政府もなくなっていて、競争や欲望が排除されているから冨や貧困の概念すら存在しない。
変わりはてた‘未来’に途惑うばかりの「わたし」は「他の星から来た人」として丁重に扱われる。彼を案内する人々の話から、いかに十九世紀以後の二百年間にロンドンが変わったかを知らされる。



財産を所有しなくなって争いや揉め事がなくなった新時代の理想郷が描かれているのだが、逆にその理想社会から十九世紀の英国文明を批判・風刺する視点もある。「わたし」にとってはよく知る現在‘だった’ものが、未来人には忘れられつつある(恥ずべき)過去として語られるという二重視点。
自分としてはこの未来図よりも、正反対の(すでに克服したものとして回想される)‘俗悪’な過去、つまり、ユートピア建設の発端となった十九世紀当時のロンドン批評により興味を持って読んだのだった。
ハクスリー『すばらしき新世界』がそうだったように、未来社会を描いた作品は必ず「予言の書」と評されるのはお定まりで、本書にも確かにそういう一面はあるのだが、予言というよりは、産業革命以後の資本主義社会の発展の裏面を正確に見通した文明批評にどきりとさせられる。
必需品ではなく「偽物」「まがいもの」が蔓延している。使うためではなく、ただ売るためだけに物が作られ続ける。資本主義社会の悪弊としてモリスが指摘する「世界市場」のシステムはまぎれもなく二十一世紀の現代にも通じていて、一層強化と拡散を続けているのだけれど、これが書かれたのが1890年であることを思えば、その視線の射程の長さに驚かされる。生きるために働いているのに、そのために健康を害し、日々ストレスと戦いながら老いていく。現代人のそういう矛盾に百年以上も前にモリスは気づいていて、その反動としての未来のユートピア像を創出しているのだが、それは社会主義者だったからこそなのだろうか。

「たしかに昔の本はいま書かれるやつより活気にあふれておる。そうした本は、良質で健全な無制限の競争という条件のもとで書かれたんじゃな ― これは歴史の記録からわからなくても、本そのものからわかってしまうんですな。そこには冒険心というものがある。そして悪から善を引き出す能力の徴候がある。いま書かれている本にはまったく見あたらぬものなんじゃがね。」


資本主義の行き着く先は社会主義的な社会になるしかないのかどうか、政治的なところはぴんとこないところもあったのだが、書物に関するいくつかの記述は興味深かった。未来人のエレンが月夜に窓を開け放って「これがいまの時代のわたしたちの書物なのです!」という件りは感動的でもあった。
総じていえば、すべての古典も文学も抑圧からの解放が共通のテーマになっていて、それ自体が資本主義構造下での発想なのかもしれない。時代は移ろえど様々に形を変えて再生産される搾取と迫害の不幸な物語。では世界中すべての人々が幸福になったとき、文学は無用になるのだろうか。ファシズムの下(ディストピア、かつての日本だってそうだった)では書物も弾圧の対象になったのは歴史上の事実だが、ユートピアでも本は不必要なものなのか? 一読書家としては、本がない世界は不幸ではないのかと問いたくもなるのだが……(本だって商品なのに違いはなく、売れないのに生産される製品である)。
1890年に書かれたこれがユートピアの真の姿なのだろうか? 文明が発展を止めるのなら退化ではないか? 争いがまったくないのはどこかで人間の個性や本能が統制されているのではないか? 歴史や伝統が失われた英国はもはや英国ではないのではないか? という疑問が消せないのは、本書の五年後にH・G・ウェルズが『タイムマシン』の最後に記した鮮烈な一行 “ 文明の発展は愚かさの増大を意味し、やがては反動的に人類を衰退に導くだろう ” が深々と記憶されているからである。(社会主義に傾倒していたというウェルズは『ユートピアだより』を読んでいたのではないか。ここからインスピレーションを得て『タイムマシン』の未来人エロイのヒントにしたのではないか…?)
未来の新ロンドンは緑があふれ、テムズ川の水も澄んでいる。「エルサレム(=ユートピア)」とはこういう場所のことなのかとも思わされて、あの詩の言わんとしていることが(英国人の気持ちが)ちょっとだけわかったような気がしたのだった。


      
    

詳しい訳注と40ページもの訳者解説も充実、読みごたえあり。
本邦初訳は1901年(明治34)、堺利彦平民社から(!)出版した『理想郷』だという。発禁にはならなかったのだろうか、そもそもこれをまともに訳せたのだろうかと興味は膨らむのだが、意外なところで堺利彦とつながっているのを知り、嬉しかった。明治の社会主義者の感度の高さは本物だったのである。



昨日、10月にバッキンガム宮殿でFA(イングランドサッカー協会1863年創立)150周年記念の試合が行われるという報道があった。ホストはFAの役員でもあるウィリアム王子だそうだ!
この作品にサッカーのことは書いてなかったけど、どんな世界になったとしてもFAは滅びないのではないか。あと、テムズ川の水質も良くなるらしい理想郷ロンドンにイーストエンド名物‘うなぎゼリー’は残っているのか、気になるところである。