奥泉光 / 東京自叙伝


奥泉光 / 東京自叙伝 / 集英社(432P)・2014年5月(140830−0905) 】


・内容
 維新から太平洋戦争、サリン事件からフクシマ第1原発爆発まで、無責任都市トーキョーに暗躍した謎の男の一代記! 超絶話芸で一気読み必至の待望の長編小説。世の中、なるようにしかなりません! !


     


五月の発売直後に買った奥泉教授の新作をようやく読む。新聞広告などを見ても内容が想像つかないのはいつものとおり。寝しなにちょっとだけ読むつもりで開いた冒頭数ページで「ああ、またか…」とため息が出たのは様々な理由からであって、云ってみれば、家業を継がずに風の吹くまま気ままな旅暮らしをしている団子屋の長男がふらり帰ってきて座敷で家族を前に上機嫌に一席ぶつ旅先の与太話を聞かされるおいちゃんおばちゃんの心境みたいなものであろうか。つまり嫌ではないが、しかしながら少しばかり迷惑で聞いているうちに腹立たしくなってくる無責任な奥泉節が炸裂しているからであった。
あと400ページもこの調子が続くかと思うと、また始まったかこれは困ったことになったぞと脳内スイッチは自然に奥泉モードに切り替わる。不幸中の幸いというか上下巻ではないし、400ページ程度で解放されるのならまあいいではないか。年に何度もあったらたまらないが、一年か二年に一度の恒例イベントみたいなものなのだからと納得する。

 なんといっても自分の事なので、私はこの不思議をずっと考えてきた。いわば「私問題」の玄人だ。しかし、その玄人にしていまだ納得できる解答は得られていない。肉体はやがて衰え滅びる。人は老いて死ぬ。死んで埋められ腐る。あるいは焼かれて灰になる。普通はそれで「私」はおしまいになる。であるはずなのに、この私に限っては、また別の肉体を持った「私」がヒョイと出てくるらしい。どうもそう考えるより他ない。


実際、この作品は‘THE 奥泉・ひとり祭!’の感もある。ねじりハチマキでワッショイワッショイ掛け声をかけながらはりきって書いているような勢いがある。
今作も「尻にぴりっと電気が走り」「架空のしっぽがピリリと痺れ」ると凶悪事件や大災害が起きる。「ピカ」とか「ピリ」はいつだって奥泉教授作品のキーワードであるから、おおむねいつもの調子といえる。しかし今作は大事件のオンパレードでだんだん大事件がたいした事件と思えなくなってくる。
気宇壮大なのは設定だけで語り口は例によって諧謔的、ちまちましてて卑屈でいやらしい。イライラが募ってどこかで「いい加減にしろ!」と切れそうな予感がありながら、一方でにたにた笑いを浮かべつつ頁を繰る手は止まらず、気づけば就寝予定時刻をとっくに過ぎているという毎晩。
つまりは祭の傍観者がいつしか熱気の渦に巻きこまれて「ぐだぐだ」の共犯者になっていたと、そういうことか。そういえば中盤以降、主人公の尻に電流が走るたびに自分の尻もむずむずしていたのは、あれはどういうことだったのか? まあ自分はもともとオ    東京を舞台にした莫言『転生夢幻』の矮小版みたいな感じかと思いつつ読んでいくと、だんだん『俺俺』みたいになってくる。というか、ほとんど俺俺状態だ。最後は開高健『パニック』みたいにネズミ=わたしの大群が東京湾集団自殺して終わるのかと思ったが、さすがにそんな手は使わない。なんだかよくわからないエンディングだったのは、たぶん結末を決めて書いてないからだろう。


江戸時代から現代までの東京に生きる「地霊の私」の物語。東京そのものが主人公といってもいいのかもしれない。じっくり読めば小説仕立ての日本近代史でもあり、とても勉強になりましたありがとうございます、とは少しも思えなかった。「私」とは何か、何物であるのかを問うているようで、私も君もネズミなのだよと煙に巻かれれば足場はぐらぐらと揺らいで言葉を失うしかないのである。
そういえば『神器』にもネズミがよく出てきたが、奥泉先生はこの動物が好きだ。正確にいえば、ネズミが出てくる状況が好き、ということになるだろうか。腐臭漂う地下溝とか天井裏の配管パイプとか壁裏とか。実はこのお方は人間ではなくネズミを書いているだけなのだと考えれば、この作家の自虐と屈折ぶりのかなりの部分は解説できそうな気がしてくる。
災禍にみまわれた都市の暗部に嬉々としてうごめくネズミたち。江戸大火から関東大震災や大空襲を経て3.11まで、廃墟と復興をくり返す東京を虚実入り乱れた理屈のごり押しで描いていく。

 武道館に話を戻せば、あそこで私が魂飛魄散の心境に陥ったのは、私の増殖が知らぬうちに驚くべき速度で進んでいる事実に直面したせいで、あそこにも私、ここにも私と、客席の私を順番に確認するうち、このままじゃいずれ東京中の人間が私になってしまうゾと、本気半分冗談半分に呟けば、単純に恐怖とも云えぬ、どこか甘い魅惑を含んだ黒蜜のごとき戦慄に躯が浸され、架空の尻尾がビリビリ痺れて、私は怪鳥のごとき悲鳴をあげつつ、またもあっけなく失神してしまいました。


芥川賞選考委員なんてやっていると、並の小品を書くわけにはいかないし新作を書くのにプレッシャーを感じるものだろうと想像するのだが、こういう作品を書いているかぎりは「選考委員のくせに」なんて批難は受けずにすむ。周到な計算高さを感じるのは自分だけだろうか。文学なんだかただの悪い冗談なんだかわからない作品を書かせたら、この人の右にでるものがいないのは事実だ。
それにしてもこの体力はたいしたものだと思う。一匹の下等生物を歴史との整合をはかりながら誰が誰だかわからなくなる最後まで延々引っぱって、ついには現実を虚構めかせて見せてしまう。この現在を現実たらしめるのは真摯な歴史検証の積み重ねだとすれば、東京は無根拠都市であり日本は書き換え可能な曖昧な歴史観に拠って立つ無根拠国ということになる。そんな態度は本当はずるいとわかっていても、この人にそう説明されるとそうかもなと思えてきて反論が出てこない。迂闊には書けない原発行政もこんなふうに書かれてしまうと骨抜きにされていちいち怒る気も失せてしまう。
古代から日本の地下でネズミがまき散らし続けているのは無責任ウィルス。われわれは一人残らずその感染者集団。遠い祖先の遺伝子にとっくにそれは刷りこまれていて、何代もくり返してきたのだから逃れようもない…… ページの向こうで「ほらね、そうでしょ?」と眼鏡をきらり光らせてネズミ顔がキキっと笑っているようで悔しいのだが、自分には奥泉ウイルスの免疫があるから痛くもかゆくもない。
日本全体が無責任だから奥泉光も無責任なのか、奥泉教授が自分の無責任を全日本人に拡大転嫁しているだけなのか、何とも判別しかねる。たぶんどっちもハズレではないと思うが。丸山真男の「抑圧の移譲」と「無責任の体系」がベースにあるとしたら、民主主義の永久革命が隠れテーマにあるということになるが、そんな匂いはちっともしないからさすがである。