小河原正己 / ヒロシマはどう記録されたか


【 小河原正己 / ヒロシマはどう記録されたか / 朝日文庫(上304P、下376P)・2014年7月(141001−1006) 】


・内容
 人類史上初の原爆により壊滅した広島中央放送局と中国新聞は、被爆翌日にラジオ、3日後に新聞が再開。以来2つの報道機関にとって、原爆報道調査はその使命となった。あの日、地獄絵図を記録しながら記事にすることができなかった「爆心地のジャーナスリト」たちが残した証言や手記・写真などを軸に、ヒロシマ被爆の実相に迫る、唯一無二のドキュメント。


     


ヒロシマはどのように伝えられたか」に興味があるので読んだ。昭和二十年の終戦ドキュメントを読むと、いつも気になるのは、原爆投下された広島と長崎の状況が当時どれだけ東京の大本営に伝わっていたのかということである。継戦か終戦か、御前会議のご聖断うんぬんの話ではなく、被爆者救済に(当時「被爆」という概念すらなかったとしても)国は少しでも動こうとしたのかどうか。それどころではなかったというのなら、当時の指導者たちは戦後、広島長崎の惨状を知ったとき、少しぐらいは恥じたのだろうか。そもそも軍幹部や閣僚だった者たちが原爆被災地の実情を知ったのはいつだったのか?
そんな自分の疑問や憤りは何十年も過ぎた後学のわずかな見聞を基にしたもので、あの時代にリアルタイムに生きていた日本人に直接ぶつけるべき問いではないのかもしれない。それにしても広島と長崎、それに沖縄や満州で起きていたことと、東京の密室劇が切り離されて語られる歴史への不信をいつも感じてしまう。
(文字どおり「身をもって」東京に伝えたのは、移動劇団「桜隊」の女優・仲みどり。被爆後、列車で東京までたどり着き、帝大病院に収容され24日に死去。人類史上初の原爆症患者として認定された)

 「しかし、これだけの大惨事に一枚もシャッターが切れんかったら新聞カメラマン、いや軍の報道カメラマンとして恥をかく、と思って、心を鬼にして、遠くから一枚シャッターを切ったのです。それまでに三十分くらいかかりました」
 被爆から約三時間後の午前十一時、「あの日」のヒロシマを記録する世紀の記録写真となった。


最近、土門拳の写真集『ヒロシマ』を見る機会があって、彼の文章も読んで知ったのだが、広島の惨状が写真で初めて公開されたのは、1952(昭和27)年のアサヒグラフ八月六日号〈原爆被害初公開を特集〉だったという。実に戦後七年も後、だったのである。GHQ占領政策で出版物への検閲があり、原爆被害報道も規制された。原爆症に関する医学・科学論文までもが検閲されたという。講和条約が締結され、プレスコードが解けた1952年以降にようやく堰を切ったように原爆報道は始まったのだった。(終戦直後に報道各社は戦争報道の自社資料を処分してしまっていた)
その七年のあいだに日本はめざましい復興を果たした。国民はみな自分が生きるのに必死で、脇目もふらずに生活再建に取り組んでいたのだろう。広島や長崎がどうなっているかも知らずに。もし「原爆被害の実相」がこの当時にもっと早く日本中、世界中に伝えられていたなら、その後の世界は今とは変わっていたのではないかと思われてならないのである。


本書はNHKで「爆心地のジャーナリスト」や「きみはヒロシマを見たか」などの特集番組を制作した著者による「どう記録されたか」のドキュメントである。上巻は八月六日、下巻は翌七日以降の、知らされなかった広島を再現する。
市街にあって壊滅した中国新聞社、同盟通信、NHK広島局(当時はラジオのみ)の、奇跡的に一命をとりとめた記者たちの当日の動向を追い、多くの被爆者の声も集めて、生々しく‘あの日’が描かれている。軍部が握りつぶした幻の第一報、松重美人カメラマンが唯一記録したあの日の五枚の写真、その写真に偶然写っていた少年と少女のその後、新聞と放送の復旧など、通信が途絶し、助けを求めることもできない想像を絶する状況下で個人がとった行動をもとに、甚大な被災の全体像をあぶり出していく。
後にNHK広島が展開した「爆心地復元」と「原爆の絵」キャンペーンへの広島市民の反響の大きさと、十年二十年後になって発掘された数々の新事実には身震いする思いがした。江戸家猫八(ものまね師)と木村功(俳優)が原爆番組の中で初めて明かした被爆体験にも鋭く胸を衝かれた。あの日の広島にいたことを押し隠して生きねばならない苦しみ、生きのびた者にさえ負わせる悔恨や恥辱も、一生消えることのない原爆後遺症の一つであるらしい。

 木村さんのリポートが終わって、番組が終了すると同時に、生中継のカメラを取り囲んで、木村さんがヒロシマをどのように語るのか固唾を飲んで見守っていた人々の間から、期せずして波のような拍手が起こった。カメラには映っていなかったけれど、周囲には約百人の広島市民が木村さんを取り巻いており、この広島市民の無言の熱い視線が、これまでヒロシマにこだわり続け、黙して語ろうとしなかった木村さんをして語らせたのである。


たとえばつい最近の御嶽山噴火現場で被災者自身が撮影した映像がなければ、われわれはそれほど興味を持ってあのニュースを見なかったかもしれない。写真や映像は音声や文字以上の証拠となりうる媒体かもしれないが、逆に写真も映像もなければ事実として受けとめない可能性もあるのではないか。
松重さんの写真は終戦後、米軍に接収されてしまい、広島で公開されたのは三年後だった。その写真に行方がわからなくなっていた肉親の姿を見つけた人もいたのである。もしもこの写真がリアルタイムで世界に発信されていたらと思わずにいられないのは、まず第一に、見殺しにされることなく救われた生命がたくさんあったはずだからだ。第二に、原子爆弾がどのようなものかを世界に知らしめたであろうからだ。第三に、こんな事実がありながら原子力政策がのうのうと進められることはなかったのではないかと考えたいからだ。
GHQが原爆報道を押さえつけたのは、原爆の惨禍を知られて反米感情が高まるのを怖れたからだが、それほど惨たらしく正視に耐えない光景だったということである。
二度と過ちを繰りかえすまい ― この「過ち」という言葉にはもちろん戦争が当てはまるのだが、同じように報道や表現への規制も当てはめることができるだろう。われわれはもっと知ろうとしなければならないし、知ることをやめてはならないのだ。