SIONライブ


SION アコースティックツアー 2014 〜SION + Sakana Hosomi & Kazuhiko FUjii〜 / 12月17日 浜松窓枠】


     


年末恒例のアコースティック・ライブで今年もSIONが浜松に来てくれた。
昨年から藤井一彦(G)、細身魚(Key)との三人のユニットでの演奏に変わったのだが、キーボードが加わったことで演奏は色彩と空間的広がりを増して、よりドラマチックなものになった。
エレピ、オルガン、アコーディオン、それにギターと四種の楽器を持ち替えての魚の熱演には昨年も目を丸くしたのだったが、今年はますます深化したステージを見せてくれた。長髪、スリムジーンズ、色褪せたコンバースの小柄な、寡黙そうな蒼白い表情をした魚氏が髪を振り乱しながら鍵盤をひっかき、叩き、指を走らせる様は、古き佳きロック・スピリットを体現していて、間近で見ていて興奮を抑えられない。


名古屋と大阪でのライブの後、列島が寒波に覆われた今週、体調と喉の調子が心配されたSIONだったが、そんな心配は無用だった。「雪かもな」でさらりと始まったステージは進行につれ喉が温まるとともに、熱を帯びていく。あいかわらず趣味の悪いジプシー風の、破れたモッズコートみたいなジャケットにゴツいライダーブーツのいでたちだったが、そこにいるのは声を絞り出してがなり立てていたかつてのSIONではなかった。
当たり前だが、ただ芸能として歌っているのではないことが、届けよう、伝えようとする意思がひしひしと、しんしんと、痛いほどに伝わってきた。自作の歌にこめた想いと、実際に聴衆を前に歌うときの想いに1ミリのずれもない。今どきそういう歌や演奏に触れる機会はめったになくなってしまった。


  “ 心と体を持って生まれてきたんだから、
      疲れないやつなんていない ”


目の前にあるのはソウル・シンガーの姿だった。
ロック・ミュージシャンなんてどうせ若いときの趣味の延長をたまたま職業にすることができた一部の幸運な人種にすぎない。この二十〜三十年のあいだに、この業界に片足をつっこんで青春期のバブルを経験しながら表舞台を去っていった者たちは数知れない。SIONがいつ、どのようにスタイルとスタンスを変えたのか、それとも変える必要など端からなかったのかは自分にはわからない。ただ、それが戦略的な変化ではなく、自然と現在の姿へとゆるやかに変貌、進化を続けてきたのだろうと思う。
そして、歌手なんてものは年齢とともにブルースへ、ソウルへと近づいていくのが本来の姿だろうと自分は思っている。呻きと嘆きと囁きが歌になる― それ以外に何があろう?それ以上に追求すべき技術があるだろうか? 心優しきすべての表現者は、その人生の正直な告白ができるようになって、初めて裸の詩人になれるのだ。商品としてではなく、広告人形なんかでもなく、あらゆる仮装と化粧を剥ぎ落とした自分に厳しく向き合う姿勢が音魂となって表れてくるのだから。


毎回そうしてきたように、今年も最後列でステージを見守っていた(窓枠は小さなハコなので、それでもステージまで15mほどの距離もない)。「ハレルヤ」のリフを一彦がかき鳴らし、アコーディオンを抱えた魚がぴょんぴょん跳ねながら手拍子をうながす。黙って見ていられなくなって、歓声を上げながら最前列に突進して彼らの飛び散る汗を浴びたのだった。
歌をつくって歌い、届ける。その繰り返しのサイクルを現実の生業としていくのは、きっと苦しい戦いの連続でもあるだろう。そこに参戦できる一年にたった一回の貴重な機会なのだ。最大限の感謝と声援を送らずにはいられなかった。
二十数年前にSIONを選んだ自分の目に間違いはなかった。今なお表現を模索する戦いをやめない一人の歌手とともに年齢を重ねられる幸運に感謝しつつ、自分にとってのささやかな奇跡と秘かな誇りを新たにする夜でもあった。
その声でしか歌えない歌がある。その声だからこそ歌える歌がある。結局は、誰しもがそのように生き、歌うしかないのではないか。SIONのファンでいて良かった。これまでも、これからも……
SION、魚、一彦、ありがとう! 来年もまたここで!