アルゲリッチ 私こそ、音楽


アルゲリッチ 私こそ、音楽 / 12月14日 浜松シネマイーラ


     


マルタ・アルゲリッチは不思議なピアニストである。演奏家が身に纏う求道者的な風情を少しも感じさせず、どの曲を弾いてもその奔放な剛腕の前には解釈の余地が介在しない。再現芸術というクラシック音楽界において、「アルゲリッチ」という個性の自由な発揮が許され期待される、つまり、演奏者>作曲者が認められる稀有な存在なのだ。…… クラシックに詳しくない自分には、(グールドと並んで)彼女はロック・スターと同じ文脈で眺めることができる唯一のピアニストである。
そのアルゲリッチのレアなドキュメンタリー映画。彼女には父親がそれぞれちがい国籍もちがう三人の娘がいるのだが、三女ステファニーが撮影した七十歳になる母親の素顔が映し出されていた。


ここに描かれているのは天才音楽家アルゲリッチではなく、母・アルゲリッチ。その娘たちとの関わりは当然のことながら一般家庭とはちがっている。世界中を飛び回るマルタは不在がちで、幼少時の娘たちに(世間的な意味での)十分な愛情を注いではこなかったように見える。彼女は多弁な人ではないようで、父親のこと、家庭のことを問われても「説明は難しい」「言葉には出来ない」と言葉を濁す語りが多かったように思う。
「学校なんて行かなくていい」という母に対し、次女アニーは「私は行きたいの」と反抗したのだと笑う。過去にはきっと「自分の娘でしょ!」と怒鳴りたくなったこともあっただろう子どもたちが、今は老いかけた母親の周りを囲んで友人のごとく接している。べつべつの国に離れて暮らし、成人した彼女らが、それぞれに母・アルゲリッチを受容してきた過程には複雑な葛藤があったはずである。


ショパン・コンクール優勝時の白黒映像がはさみこまれ、タンゴの国アルゼンチン生まれのこのチャーミングな女の子が…という感慨に包まれる。あきらめる、というのではなく、受け容れるしかない。母親が世界的才能に恵まれたピアノの怪物で、全人類的財産の一人なのだと認識するのは、どんな気分だったろう。どれだけの時間が必要だったのだろう。ステファニーはマルタを「女神」であり「超自然的存在」と語っていたが、そしてそれはアルゲリッチ・ファンの観客には納得がいく言葉ではあるのだけれど、肉親をそのように表現する態度を自分には理解できない。
しかし、彼女らがそのように母親と折り合いをつけたのも「アルゲリッチの子」ゆえに可能だったのではないかとも思わされるのだ。私的アルゲリッチと公的アルゲリッチの狭間。アルゲリッチ基準。アルゲリッチ時間で流れる人生。アルゲリッチ速度の演奏。ピアノの子の、その世界に生まれついた者にしか見えない唯一の母親像が映っていて、それが風変わりに見えたのなら、変わっているのは観客側の目なのである。


少し前にNHK-BSで深夜に放送されたダニエル・バレンボイムアルゲリッチのピアノ・デュオ・コンサートを見た。手首の使い方や指の曲げ方など、二人の演奏姿勢のちがいがよくわかったのだが、いちばん興味深かったのは、演奏後にアルゲリッチが深々と腰を折ってお辞儀をしていたことだった。まったく日本式のお辞儀。別府のアルゲリッチ音楽祭でたびたび来日している彼女と日本のつながりを想像して嬉しくなったのだが、来日時の映像もこの映画には含まれていた。
舞台の袖で今日は具合が悪い、演奏なんてする気分じゃないとしきりにこぼし、ナーバスな様子のマルタ。母がステージに出て行くと、もう自分たちのところへは永遠に戻ってこないのではないかと不安がる娘。そしてコンサートが終わったときには娘は疲労困憊してぐったりしているのに、母の方は生気に満ち意気揚々と舞台を降りてくるのだった。そのコントラストにアルゲリッチ母娘の関係が凝縮されていたように思われた。
自分が「アルゲリッチ」の名を初めて記憶したのは、1980年のショパン・コンクール、イーヴォ・ポゴレリチの評価をめぐって審査員を辞退した事件によってだった。たぶんNHK「海外ウィークリー」で、『刺青の男』を出したストーンズのライブレポートが紹介されるのを期待して見ていたときだった。