大江健三郎 自選短篇


大江健三郎 自選短篇 / 岩波文庫(848P)・2014年8月(141208−1219) 】


・内容
 「奇妙な仕事」「飼育」「セヴンティーン」「「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち」など、デビュー作から中期の連作を経て後期まで、全23篇を収録。作家自選のベスト版であると同時に、本書刊行にあたり全収録作品に加筆修訂をほどこした最終定本。性・政治・祈り・赦し・救済など、大江文学の主題が燦めく、ノーベル賞作家大江健三郎のエッセンス。


     


いやあ、読みにくい本だった。かなり無理した感のある800P超のボリューム。文庫なのに片手に持って読めない。両手でしっかり押さえつけて、ほとんど頭を突っこむようにしないとページの中程は見えないから、こたつに寝そべって気楽に読むということができなかったのだ。
熱心なファンではなく、あまり読んでこなかったと思っていた大江健三郎。まとめ読みする良い機会なので少しずつ読み始めたのだが、結果的にはほとんど既読だった。正確には、読みかけてやめた作品もいくつかあったのだが。そして今回もやっぱり『雨の木(レイン・ツリー)』だけは途中で読み飛ばしたのだった。
『死者の奢り』から『火をめぐらす鳥』まで、五十年代から九十年代に発表された23の短篇。といっても、中期の連作集『雨の木』と『新しき人よ眼ざめよ』のほとんども含まれていた。


大江健三郎が『飼育』で芥川賞を受賞したのは1958(昭和33)年。前年に開高健が『裸の王様』で受賞している。自分は開高派だが、あらためて並べてみると、二人の初期作品には確かに同時代性を感じる。
『奇妙な仕事』『死者の奢り』『飼育』… 最初期の作品を続けて読んでいくと、妙なアルバイトをする学生が主人公だったり、犬の屠殺、研究用屍体の管理、結核菌患者の未成年病棟、山間地での黒人兵監禁、等々、世間から隔離された特殊な世界ばかりが描かれている。若い頃に文学とはこういうものなのかと思いながら読んだ当時の嫌悪感も蘇ってきたのだが、性倒錯やグロテスクなものへの志向は文学エリートのひ弱さを隠すためだったのではないかと思われた。
これまであまり意識したことはなかったのだが、この作家は東大の仏文卒。作品からはフランス文学との連関はあまり感じられないが、ジッドやサルトルを原文で読みこなした翻訳作業が後の彼の文体につながっていったのではないだろうか。

ブレイクにみちびかれて僕の幻視する、新時代(ニュー・エイジ)の若者としての息子らの ―それが凶々しい核の新時代であればなおさらに、傭兵どもへはっきり額をつきつけねばならぬだろうかれらの― その脇に、もうひとりの若者として、再生した僕自身が立っているようにも感じたのだ。


小説なのにひたすら自問自答を繰り返しているような独白調の文体は感情移入のしようがない。ストーリーテラーというのでもなく、名文家というのでもない。書かれていることが自分の日常生活とはまったく接点がなさそうで、すすんで読みたくなるような作品はない。したがって気に入って深く記憶した作品もなかったのだが、なのに自分が彼のほとんどの本を手にしてきたのはなぜだろう?
これは何だ?というわかりにくさや怖さ、異物感に難渋しながら向き合うこと。特に中後期の、日常の些事をいちいちブレイクやダンテを引用して展開される思索の飛躍や、読書体験に始まる連想と思考の変容に付き添ってみること。大江健三郎の心理状態につきあわされるのは愉快ではないものの、ある種の一般教養というか、精神修養と鍛錬のための必修の時間ではあったように思われるのだ。その作業があったからこそ、後の村上龍中上健次が読みやすく娯楽的にすら感じられたのではないか……?


中後期の作品には、障がいを持って生まれてきた彼の長男「イーヨー」を題材とした挿話が多い。自分の死後に残される息子の将来を慮る父親の個人的懊悩を、全人類的な魂の救済へと接続する回路を開くための基点にしようとしているかのようだ。
夕食の時間。「イーヨー、ご飯だよ」と呼んでいるのに彼は、自分はもういないのだからそっちにはいかないと頑なに拒む。思慮深い性格の次男が名前で呼びかけてみると、長男は「はい、そういたしましょう!」と元気よく応えて食卓にやって来た…… 『新しき人よ眼ざめよ』のラスト近くに書かれた輝かしいエピソードだが、(語弊があるかもしれないが)自分は以前、長男が健常に生まれてこなかったことは大江健三郎にとって誤算だったのではないかと想像したときがあった。もし大江健三郎が家庭を顧みずに文学活動に全霊を傾注していたのなら、と不遜にも考えたりしたのだが、そんなことではなかったのだと今回再読して遅まきながら気づいたのだった。
収められているすべての作品の中で最も読みやすいのは、そしてこれまで二十年以上読んできて初めてお気に入りマークを付けたのは、(これも刊行時に読んでいたはずの)イーヨーを見つめる妹を主人公にした『静かな生活』だった。
自分の「読み」の浅さに、まだまだだな…と感じざるをえないのだが、これからこういう作家の作品を読めなくなると考えるのも怖い。