大江健三郎 / ヒロシマ・ノート 沖縄ノート


“ 1958年は「ヒロシマ」においてあらゆる文学者が写真家によってはるかに追いこされた年度になるだろう。いかなる文学作品も1958年に、この写真集よりもなお現代的であることはできなかった。(中略) わたしはこの少女の手術の一連の写真に、戦後の日本でもっとも明確に表現された、人間世界の不条理と、人間の虚しいが感動的な勇気の劇を見る ” ― 土門拳の写真集『ヒロシマ』について大江健三郎はこのように記している。

1958(昭和33)年、つまり大江健三郎が史上最年少(当時)で芥川賞を受賞した年である。今でこそ彼が戦後日本の民主主義体制について、3.11後の現代まで実に息の長い発言を続けてきた作家であることは知られているが、作家生活のスタート年に『ヒロシマ』を見たことが、その後の彼の活動と作品を方向づけたと言えるのかもしれない。『飼育』や『死者の奢り』を書いていた若者が戦後社会を肌で感じ取るために大学と書斎を抜け出し、「もっとも現代的」な現場へと足を運んだ、その記録がこの二冊である。
しかし、その成果はけっして芳しいものではなかったようだ。


大江健三郎 / ヒロシマ・ノート / 岩波新書(186P)・1965年(141218−1220) 】


・内容
 広島の悲劇は過去のものではない。一九六三年夏、現地を訪れた著者の見たものは、十数年後のある日突如として死の宣告をうける被爆者たちの“悲惨と威厳”に満ちた姿であり医師たちの献身であった。著者と広島とのかかわりは深まり、その報告は人々の胸を打つ。平和の思想の人間的基盤を明らかにし、現代という時代に対決する告発の書。


大江健三郎 / 沖縄ノート / 岩波新書(228P)・1970年(141221−1223) 】


・内容
 米軍の核兵器をふくむ前進基地として、朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる持続した戦争の現場に、日本および日本人から放置されつづけてきた沖縄。そこで人びとが進めてきた苦渋にみちたたたかい。沖縄をくり返し訪れることによって、著者は、本土とは何か、日本人とは何かを見つめ、われわれにとっての戦後民主主義を根本的に問いなおす。


     


気鋭の青年作家が見た、1963−64年の広島と、1969−70年の復帰前の沖縄。初出の明記はないが、おそらく岩波の総合誌「世界」に発表したレポートをまとめた本である。戦後二十年が過ぎた同時期、ベ平連に関わっていた開高健ベトナム戦争に従軍取材し、また海外と国内各地を飛び回って旺盛にルポを書きまくっていたのも一つの刺激であったのかもしれない。直前に読んだ『自選短篇』とは別の顔の大江がここにいる。
広島にも沖縄にも何度も足を運びながら、現地で「きみは何故来たのか。何をしに来たのか?」との問いを厳しく突きつけられ(それはほとんど妄執のごとくに自らの首を締める自責だ)、うなだれたまま東京に帰ってくる。そうして結局は何人かの‘真に広島的な、沖縄的な’とみなす人物の幾冊かの文献資料を頼りに思索を重ねた悶々とした文章を書き連ねる。これならば、わざわざ出かけていくほどのこともなかったろうにと感ぜられもするのだが。

 われわれ、偶然ヒロシマをまぬがれた人間たちが、広島をもつ日本の人間、広島をもつ世界の人間、という態度を中心にすえながら人間の存在や死について考え、真にわれらの内なるヒロシマを償い、それに価値をあたえたいと希うなら、広島の人間の悲惨 → 人間全体の恢復、という公理を成立させる方向にこそ、すべての核兵器への対策を秩序だてるべきではないか。 


戦後文学の旗手、進歩的知識人としてのナイーブな分析と、広島と沖縄の現実との、埋めがたい距離、温度差。安保闘争キューバ危機、ベトナム戦争東京オリンピック大阪万博沖縄返還運動。六十年代の十年の流れのなかで、東京の書斎にじっとこもった傍観者のままではいられなかった焦燥と、その意に反しぶち当たった分厚い壁の前に無力感に包まれて茫然自失している青年の姿が浮かぶ。
日本とは、日本人とは、日本の民主主義とは…… 突破口を見いだせず、広島でも沖縄でも部外者の疎外感を味わいながら、現地に通えば通うほど袋小路に追いこまれていくかのようである。
文章は生真面目な堂々めぐりを繰り返して重複が多く、観念的にならざるをえない。酸欠状態であっぷあっぷしているのではないかと心配になるほどに息苦しい。そうして思い詰めたあげく、常に「このような日本人ではない日本人へと自分を変えることはできないのか?」という振り出しの問いに戻るしかないのだ。


それは俊才・大江健三郎にとって敗北感をともなった恥辱にも等しい苦い体験だったのではないかとすら思われるのだが、戦後作家の通過儀礼としての微かな‘勝算’をも同時に感じていたのかもしれない。文学者である自分の私的スタンスを発見する、きわめて個人的な小さな希望だったのかもしれないが。
自分はこの当時の時代状況やムードを知らないが、鶴見俊輔小田実ベ平連をはじめ、市民運動平和運動が真っ盛りだったはずである。大江健三郎が運動体組織の一員としてでなく、単独で広島と沖縄に向き合おうとしたのは何故だったのかを考えずにはいられないのだ。戦後日本人にとっての広島と沖縄。そこに明らかな体制の欺瞞の正体を見破っていながら、告発も糾弾も成功しているとは言い難いのだが、ひとまずは自分自身のこととして徹底的に考える、その良心的な姿勢はこの二冊に貫かれている。
(今から考えると、あの大江健三郎にもこんな時期があったのだと感慨深い)

 日本人から真の経験としてのヒロシマナガサキをなしくずしに剥がしとってしまおうとする動きは、これまでも意図的におこなわれてきたし、われわれ自身の内なる風化に似た自壊作用ということもある。果たして原爆体験は日本人の真の経験となったのであったか、という根本的な問いかけもまた不断にわれわれ自身にむけておこなわれつづけられねばならないであろうし、もしかしたら、すでに真の原爆経験の人間的な泉は回復しがたく涸れはじめてすらいるのかもしれない。そこで、それにつきつけるようにして、日本人とはなにか、という自分自身への問いかけがおこなわれなければならない筈であろう。


ベ平連を一つの例として挙げるとするなら、その広く開かれた大らかな平和運動のうちにはもちろん反核基地問題をも内包しているのはわかっても、なぜ「ベトナム」だったのかという疑問から自分は逃れられない。優先順位として戦後二十年の日本人がもっと身近なものとして直視すべき問題は国内にあったのではないか。大江健三郎のこの二冊に「ベ平連」という単語はついに一度も使われていなかったと思う。それは明らかに使わなかったのであり、意識的に距離を置いて避けていたはずである。当時の日本の代表的な民主主義運動にさえ欠けていた視点を、大江は見つけていたのではないか?

“ 〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と やさしい答が返ってくるためには わたしたちは わたしたちの汚れた手を きよめねばならない ”

「捨てたはずの武器をほんとうに捨て」「異国の基地を撤去せねばならない」とまっすぐに謳った栗原貞子のこの明敏な詩が備えている鋭い棘の痛みをどれだけの日本人が共有しただろう。
戦後の日本人(つまり自分も含めた「わたしたち」)が無意識的に加担している、たとえ広島、長崎、沖縄にどれほどの同情を寄せたところで、どうしようもなく自分は本土の加害側の一員であらざるをえない。自分の手はけして清潔ではありえない、この不可解な民主主義と安保体制の不条理を知覚してしまった大江健三郎の痛恨はこの二冊から生々しい迫力を持って伝わってくるのだった。
広島、長崎、沖縄の犠牲を歴史に連続して存在する自分自身のこととして考える。単純なその作業すら戦後日本人は放棄してきたのではないか。そして3.11後の現在まで、それは変わることなく続いているのではないかと思わされるのだ。


この当時の核情況に敏感だったはずの大江健三郎の目にも、同時進行していた原発建設ラッシュはまだ映っていないのだった。