石村博子 / 孤高の名家 朝吹家を生きる


朝吹登水子 / サルトルボーヴォワールとの28日間 / 同朋舎出版(269P)・1995年(141103−1105) 】


     


サルトルボーヴォワールを伴って来日したのは1966(昭和41)年の秋。四週間の滞在中、東京から関西、九州まで巡った彼らの旅をつきっきりでエスコートしたのがサガンの翻訳で知られる仏文学者の朝吹登水子さんだった。
当時の日本は、世界で最もサルトルが読まれる国だったという。1953(昭和28)年に『第二の性』がベストセラーとなったボーヴォワールも女性に絶大な人気があった。二回の講演会には数万通の応募があり、会場は熱気に包まれた。行く先々に記者とカメラマンが随行し、彼らの一挙手一投足は全国に報じられた。
「二十世紀最大の思想家」と呼ばれたサルトル(当時61歳)だが、それにしても海外の一知識人にこれだけの注目が集まるというのは、現在ではちょっと想像がつかない現象である。


大阪・道頓堀では、あの巨大なカニの動く看板にサルトルが怯えないかと心配する登水子さんが可笑しい。小田実開高健も出席したベ平連の討論会では、主催側の通訳を気に入らなかったサルトルが登水子さんを舞台に呼び出すというハプニングも。
好奇心旺盛なサルトルボーヴォワールは下町の商店街をぶらついたり、大衆食堂で食事をしたりもしている。基本的にはプライベート旅行でSPが付いているわけではないので、この間の登水子さんの心労は相当なものだっただろう。
二人は一般庶民の生活ぶりにも大いに関心を寄せて、日本と日本人に好意を示した。政治的思想的発言は控えていたが、広島の被爆者の現状を視察した際には怒りを露わにした。
読んでいると、ふだんは知識人ぶった態度を見せない二人の気さくで飾らない人柄がよく伝わってくる。それもひとえに細々とした心配りを欠かさない登水子さんを信頼し感謝していたからだろう。ボーヴォワールから「小説を書きなさい」と叱咤された登水子さんはその後、自作を発表。二人との親交は彼らの死まで続いたのだった。



石村博子 / 孤高の名家 朝吹家を生きる 仏文学者・朝吹三吉の肖像 / 角川書店(292P)・2013年1月(141105−1108) 】


・内容
 ジュネ『泥棒日記』の名訳で知られ、その悪と倒錯の世界を日本に伝えた仏文学者の朝吹三吉福澤諭吉に連なり、財界人ほか数多くの文化人を輩出した朝吹家に生まれた彼が、独自に守り育てた深い薫陶と美の哲学とは何か?今まで誰も触れることのなかった秘蔵の日記や資料を掘り起こし、多くの関係者への取材を重ねた貴重なノンフィクション。


     


サルトルボーヴォワールの来日時に彼らを案内したのは朝水登水子さんだが、当時の日本の政治状況や反核運動原水禁原水協)について質問されると、フランス暮らしの長い登水子さんに代わって説明したのが彼女の兄・朝吹三吉(1914-2001)だった。肩を並べて歩く三人から少し距離を置き、ここというときにだけ妹を助けに出る、兄妹のそのコンビネーションは絶妙だったという。
けして人嫌いというのではないけれど、進んで自己主張をすることはなかったという三吉の控えめな人物像を本書で知り、このサルトル来日時に陰ながら妹を支えていた彼の様子が目に浮かんでくるようだった。


祖父が福沢諭吉に師事していて、慶応−三井系の戦前の実業界に名を知られた家系に生まれ育った。フランス文学に憧れてパリに留学。美学を中心にした文化史研究にのめりこむものの、ナチスの進軍を前に余儀なく帰国、母校・慶応に職を得る。戦後、ジッドやヴァレリーを翻訳し、ジュネの『泥棒日記』(1953年)でその名を知られるようになる。
しかし、彼が翻訳を手がけたのは、あくまで「生活のため」だった。戦後の占領政策により父・常吉公職追放の身となり、預金封鎖や重い財産税のために資産を失い、名家の子息とはいえ自活せねばならなかったのだ。

 「自分がジャン・ジュネを翻訳した人間だということは、誰にも言わないでくださいね」
 ジュネはサルトルなど前衛的な文化人に熱烈に支持されていたが、一九世紀的ブルジョワジーの価値観が根深く残るフランスの上流社会では、まだ侮蔑の対象として受け止められる気配も残っていた。泥棒で男色の男が書いたものを訳したことが知られると、良くも悪くも色眼鏡で見られてしまうことを警戒したのだろう。


彼の訳業は、わずかに十四作なのだという(共訳も含む)。エッセイもランボーに関する二本以外書き残さなかった。翻訳家として生きることを拒み、教育者として若者を指南する道を選んだ。フランスの文学と文化に関して国内第一級の知識と経験を持ちながら、文学部仏文科ではなく、法学部の教養学科教授として定年まで勤めた。社会的名声への無関心ぶりは不思議なほどである。
妹の登水子さんは戦後再び渡仏し、やがて日仏の架け橋として活躍するようになる。『悲しみよ こんにちは』(1955年)は翻訳者として最初期の仕事。波乱に富んだ彼女の前半生を思うと、サガン出世作を翻訳する日本人はこの人以外にはいなかっただろうと思われる。サガンボーヴォワールの翻訳以外にも自作の小説・エッセイを発表し、「朝吹」の名を代表する存在になったが、彼女をフランス文学の道に引き入れ、その仕事をずっと見守り支えていたのが三吉だった。


英国調の、テニスコート付きの洋館。子どもたちは幼少期から英語に親しみ、両親を「ダディ」「マミー」と呼んだ。テニス、ファミリーコンサート、運転手付き自家用車、鎌倉や軽井沢の別荘。戦前の朝吹家はまさに‘華麗なる一族’である。その主人・常吉(名付け親は福沢諭吉)の五人の子どもたちは、音楽家建築士、そして仏文学者としてそれぞれの分野で多大な功績を残した。が、自立自尊を信条とする教育方針だったとはいえ、父の跡を継いで実業界に進む者が一人もいなかったというのは、また不思議な感じがする。三吉の私心のなさの理由は、一流の財界人だった祖父と父に対する複雑な感情を起因としていたのだろうか。
しかし、世襲で財界に名を成し資産家として生きるのを良しとしないDNAがこの一族には確かにあるのだ。三吉の次男は詩人で仏文学者でもある朝吹亮二、その娘が芥川賞作家の朝吹真理子。形こそ違えど、血脈は途絶えてはいないのだろう。


(いちばんの感想は、自分もこんな家に生まれつきたかった…、それに尽きる。でも、たとえパリに留学させてもらったところで、ジーン・セバーグやアンナ・カリーナみたいなパリジェンヌに熱を上げて勉学どころではなかっただろう。親の名が通用しない世界でひたすら自己研鑽に励む。自ら律して目標に突き進む。そういう‘名家’の血は自分とは決定的に違っているのを痛感した)