ジャン・ジュネ / 泥棒日記


朝吹三吉が翻訳したものを読んでみようと思い、名訳といわれる『泥棒日記』を持っていたのを思い出した。押し入れ奥にあったのは、学生時代に古本屋で買った(たぶん100円か150円)昭和三十五年の第八刷、定価は350円。持っていたということは、読んだことがあったのか。


ジャン・ジュネ / 泥棒日記 / 新潮社(350P)・1953年(141109−1114) 】


JOURNAL DU VOLEUR by Jean Genet 1949
訳:朝吹三吉


     


ページを開いて、「ああ、これか…」と読めなかった記憶が蘇った。画数の多い、見慣れぬ旧漢字ばかりの観念的な文が小さな虫の行列のように見えて、始めの数ページで放り出したのだった。盗みと売淫を繰り返す青年の犯罪記かと思いきや、冒頭から徒刑囚の告悔めく哲学的な内省文が続いて、目が痛くなる。二十何年前と同じ理由であきらめそうになったのだが、それでは自分がちっとも進歩していないことになる。かなり手強いが、わからなくても読もう、とにかく完読だけはしようと、数年前に『嘔吐』を読んだときのような決意をした。
視覚情報が脳に伝わってこない。読むというよりは、ただの目の運動。老眼で視力が落ちているところにこれはきつい。
本書が読みにくい理由の一つは、まったく章立てされていないことにもある。たださえ読点でつなげられた一文が長くて難解なのに、文章の区切りが全然ないので、方角すら定かでない代わり映えのしない景色のなかをひたすら彷徨っているようなものである。

たとえ彼等が、それが人に害悪を与えるということによって或る行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明し得るとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧き上らせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定し得るのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことはできないだろう。人が為し得ることと言っては、ただわずかに、わたしの芸術的再教育を企てることだけだろう― とは言えそれも、美が二人の人物のうちの優者によって証明されるものならば、教育者の側は、私の主張に説得され、帰依する危険を覚悟する必要があるだろう。


盗みをしながらヨーロッパ各地を放浪し、獄中生活も数知れず経験したジャン・ジュネ(1910−1986)が1949年に発表した青年期の自伝的作品。朝吹三吉の邦訳は1953(昭和28)年刊。読んでいるうちに、何となくだがこの人の「怪物的例外」ぶりは見えてきた。
「娼婦の子」と呼ばれて社会秩序からつまはじきされて育った孤児が、盗人稼業に身を浸して世間に押しつけられた「泥棒」のレッテルそのものの悪党になっていく。男色家を剥いで金品を強奪する彼に善悪の概念はなく、たび重なる逮捕拘留にも更正の意志はなく、その悪行は自分を卑賎な存在と蔑んだ社会に対する反抗や復讐を動機としているのでもない。まったく自然の摂理に従っているだけであるかのように、それが芸術的欲求の実現であるかのように振る舞い、語る。
最も屈辱的な告白こそが、最も豊饒な告白なのだ― として美と詩と自由を材料に聖性を獲得しようとする、ある種の芸術論として回想されているこれは、まさしく「人間に本性は存在しない。人間はみずからがつくるそのものになる」というサルトルの思想の、「人間」を「泥棒」に置換して具現したかのようである。


苦労してやっと終盤まで来たところで、現行の新潮文庫が「改版」であることを知った。たぶん旧字が新字になっているだけでもずっと読みやすくなっていることだろう。それを早く言ってくれよ…と泣きそうになったのだが、しかし六十年前、訳者はこれを手書きしていたのだ。
朝吹三吉は慶応でフランス語を教えるかたわら、当時日本では無名だったがサルトルが激賞していた本作を翻訳した。片時も原書をはなさず寝食を忘れて没頭、(当時合法だった)ヒロポンを打ちながらの訳業だった。大衆小説ではなく実存主義小説と呼べそうな、それでいて下層階級の隠語を散りばめて赤裸々に語られる犯罪の告白や男色者の欲望は、西欧芸術の美学研究に勤しんでいたインテリにはまったく未知の不可解なものだったはずだ。もとより友人に薦められて始めた仕事であり、出版社や編集員のバックアップがあるわけでもなかった。上流家庭に育った三吉の交友範囲に‘その道’に詳しい者もいなかっただろう。
そんな孤独な言葉との格闘(それはフランス語に対してというより、もっぱら日本語でジュネの審美眼に適う文章にするための苦行だったのではないか?)の成果は、自分の理解力の低さは差しおき、気塊として文面にありありと表れている。

もし自恃の念が、其処にわたしの有罪性がそびえる、そしてそれで織られたところの、壮麗なマントであるならば、わたしは有罪であることを欲する。有罪性は獨異性を現出させるのであり、もし有罪者が硬い心を持っているならば、彼はその彼の心を孤独という玉座の上に高く掲げるのである。孤独はわたしに与えられるものではない、わたしはそれを勝ち取るのだ。わたしは孤独へ、美への念願によって導かれるのだ。わたしは孤独において、自己を確定することを、即ち、わたしの輪郭を決定し、混合の状態から抜け出し、わたしを秩序づけることを希うのだ。


正直に言って、自分にはこれが名訳なのかどうかはわからなかったのだが(少なくとも現代日本語文としての洗練さはないと思うのだが)、しかし……
「このような私にすら生き抜く勇気と力を与えてくれた」 と評したのは坂口安吾。さらに三島由紀夫は 「ジュネは猥雑で、崇高で、下劣と高貴に満ちている。その詩心にひそむ永遠の少年らしさは、野獣の獰猛な顔をした天使を思わせる。朝吹三吉氏の翻訳は、ジュネが表現しようとした稀有な思想の脈搏を伝えている」 と激賞した。
やはりわかる人にはわかるのだろうと感嘆する反面、終戦直後の知識人はこういう荒々しくたくましい最底辺の活動に革命的な美しさや人間の生のしたたかさを夢想したがったのだろうとも思ったり。ともあれ、往年の名作が次々と新訳で生まれ変わる昨今、この作品は現在も三吉のこの翻訳を唯一とするのだ。
望まれない子として生まれたがゆえに孤独な少年時代と青春を過ごした彼を人々は「泥棒」と呼び、そのために世の常ならぬ経験の中に類い稀な材料を得ることができたジュネは新しい創造の道に生きることができた。この作品にこそジュネという作家は実存する。たぶんこの自分の解釈は、そんなに的外れではないだろうと思う。