上橋菜穂子 / 鹿の王


上橋菜穂子 / 鹿の王 / 角川書店(上568P、下560P)・2014年9月(141029−1102) 】


・内容
 強大な帝国・東乎瑠にのまれていく故郷を守るため、絶望的な戦いを繰り広げた戦士団“独角”。その頭であったヴァンは奴隷に落とされ、岩塩鉱に囚われていた。ある夜、不思議な犬たちの群れが岩塩鉱を襲い、謎の病が発生する。その隙に逃げ出したヴァンは幼子を拾い、ユナと名付け、育てるが―!?厳しい世界の中で未曾有の危機に立ち向かう、父と子の物語が、いまはじまる―。


     


狂犬の群れが人間を襲う事件が起き、疫病が流行り始める。咬まれた者の多くは死に至るが、稀にまったく発症しない者もいる。岩塩坑で起こったその襲撃事件でただ一人生きのび、幼児を連れて逃亡する奴隷囚ヴァンと、奇妙な疫病の治療法を見つけようとする帝国の高位な医術師ホッサル。出自も境遇もちがう二人のストーリーがそれぞれに展開しつつ交錯し、やがて一つに束ねられていく。
上橋さんの大作なので、今作も雪に覆われた山岳地から豊かな王都までの広大な土地と帝国領内の複雑な民族事情が背景となっている。『獣の奏者』を読んだときにもそうしたように、今回もメモ用紙を横に置いて(大雑把だが)地図を描き、主な登場人物の出身地や部族名を書きこんでいった。作中の人間関係=微妙な民族感情をもとにして書かれているので、これを把握しておくことは上橋作品を理解するうえで大事なのである。

 狼は、他の獣とは違う。もとを辿れば、人と狼は同じ神親から生まれ、仲間とともに狩りをして暮らすように生まれついた獣だ。
 それに、狼は人よりずっと神親に近い。黄泉の境目を駆けて、するりと深い闇へと入っていける、畏怖すべき、聖なる獣だ。だから、人は彼らを敬わなければならない。決して、罰当たりな農民たちがするように、狼、などと呼び捨てにしてはならない。


主人公ヴァンは‘飛鹿乗り’の元戦士。帝国に服従を強いられている辺境の出身で、暗い過去を持つ天涯孤独な男である。
彼が駆る飛鹿(ピュイカ)という架空の動物は、『獣の奏者』でエリンが愛した王獣リランを思わせる存在。ヴァンを背に雪山や急峻な岩地を自在に駆けることができるのだが、ファンタジーのお約束とはいえ、野生動物との一体感と昂揚感を大いに感じさせてくれるこの場面が良い。
そのヴァンの拾い子ユナが堅く閉ざした男の心を溶かしていく。ユナは実父のようになついてヴァンを慕い、ヴァンもユナに愛情を注ぐようになるのだが、二人の平穏な生活は長くは続かなかい…という筋書きも、わかってはいてもはらはらさせられっぱなし。物語がどうなるとしてもこの二人の絆だけは引き裂かれてほしくないと思いながら、やはりこの先に悲劇が待っているのだろうかという覚悟も胸に読んでいく。


ヴァンとユナは山犬に咬まれていながら発症しなかった。なぜ同じ病に罹って死んでしまう者とそうでない者がいるのか? その謎を突きとめようとするもう一人の主人公が宮仕えの青年医ホッサル。その病が自然発生的なものでなく、山犬の集団を組織した何者かが意図的に広めているのではないかという疑念に、支配者と支配される側の複雑な事情が絡んで、物語の伏線として政治劇的な様相が強まっていく。
病原菌が入ってしまった人間の体内でどのような活動が行われているのか、ホッサルが人体を一つの国家に喩えて考察するくだりは今作のクライマックスの一つでもあった。共存と共生。人間にとっての病素は組織においては何か。おそらく上橋さんはこの作品の中にそれを最も書きたくて、最も苦心したのだろうと想像するのだが、菌藻類から始まる食物連鎖の不思議なシステムや、肉体が自然に備える免疫や治癒力を自分の身体に当てはめて考えることができて唸らされた。

 閉じた瞼の闇に、小さな鹿が跳ねるのが見えた気がした。渾身の力をこめて跳ね上がるたびに、命が弾けて光っていた。
 ( …… 踊る鹿よ、輝け )
 圧倒的な闇に挑み、跳ね踊る小さな鹿よ、輝け。


主人公の生きざまをなぞるだけでもそれなりの感想、印象を持つことはできるであろう、完全なフィクション作品である。しかし、上橋作品に文化人類学的にいつも書かれる抑圧者−被抑圧者の構図は少し想像をめぐらせれば、案外自分と身近な隣人、あるいは近隣の国々との関係にも思い当たるところがある。今作で扱われる疫病の拡散も見方によればバイオテロとも映るのだが、その根拠となる憎悪の源泉は現実世界でも見過ごされがちだ。そこに目を瞑ってはならないのである。
ヴァンとユナはこの後どうなったのか。特にヴァンと同じ能力を秘めているらしいまだ幼いユナがこれからどうやって生きていくのか。ちょっと考えただけでも、何やらエリンみたいな悲運が待ち受けていそうな気もして、これまた続編を期待したくなろうというもの。
個人的には自分がこれまでに読んできた本の中から‘裏返し’や‘魂送り’、‘ワタリガラス’などのキーワードから連想できる作品がたくさんあって、もしかして上橋さんもあれを読んでいたのかと考えたり、そんなところも楽しかった。お茶とおつまみをたっぷり用意して、他の情報はシャットアウトして、徹夜覚悟の短期決戦で一気読みすべき傑作である。