斎樹真琴/地獄番 鬼蜘蛛日誌

昨年末、新聞の書評欄に小さい記事が載っていて、気になっていた本。それから何回か書店に足を運んでいたのにお目にかかれなかったのが、昨日、ひっそりと置かれているのを見つけて即買い。例によってオススメ本には店員の手書ポップが添えられているその書店で、見捨てられたかのようなそのたたずまいさえ、すがすがしく印象的だった…


【斎樹真琴/地獄番 鬼蜘蛛日誌 (213P)/講談社(090104-0105)】


         



地獄に堕ちてきた遊女が蜘蛛になり、亡者を責める鬼の御用聞きと見回りの役目につく。母を怨み、弱者を弄ぶ閻魔に復讐を誓った鬼蜘蛛が阿鼻叫喚の地獄をはいずり回りながら、生前の生きざま死にざまを交えつつ綴る日記。
賽の河原、釜茹で、針の山に血の池。妖しいエネルギー渦巻く地獄で延々くり広げられる奇怪で滑稽な光景。その天上に現れる空の青さが、鬼蜘蛛に人間だった記憶をよみがえらせて…


読み終えた今、鬼につく悪態や閻魔に切る啖呵は、現世をあきらめるしかなかった女の悲痛な叫びだったかと思わずにいられない。
母親を憎まねばならない残酷な境遇を呪い、身を削るばかりの、神仏を怨むしかない虚しい人生。空の青さしか心に沁みない痛切を抱えたまま、ただ「空(クウ)になりたい」と願い、雪に埋もれて女は野垂れ死ぬ。
だが、彼女を試すかのように、死んだ先にも―地獄にも―空があって、やはりその青さが沁みていくのだった。


『(ねぇ閻魔様)貴方は、生きて苦しんでいる者が過ちを犯すその前に、生きてゆけると思えるような何かを与えていますか』(その二 賽の河原のバベルの塔

生きてゆこうと思える『何か』を、彼女は掴み取っただろうか?
………
いや、彼女の中に、その『何か』は、はじめから備わって準備されていて、だからこそ、地獄の天上にぽっかりと開いた空へとみちびかれたのではなかったか?

閻魔によってその魂は後世に伝えられ、さて、その『何か』を我々は授かっているだろうか?もちろん、授かっていると信じたい。この本に出逢い、変わり果てた姿で死んでいった鬼蜘蛛を愛しくさえ思える者であるならば。


地獄の業火の灼熱と、月の輝く晩の凍える寒さと、草原を吹きぬける風に洗われる感覚に、同時に包まれたかのような読後感…
今はまだ余韻にどっぷり浸っているので、この作品についてはまたあらためて書こうと思ってます。

斎樹さん、素敵な小説を、ありがとう!