斎樹真琴/地獄番 鬼蜘蛛日誌 (その二)

ほぼ一日で読み終えて、気に入った箇所を読み返すこと数回、また始めから読んでます。付箋紙をつけながら読むのなんて久しぶりのことだ。

繰り返し読むと、禅問答になりそうな人の迷い言を、さりげない簡潔な言葉で説得力を持たせる筆者の言葉選びの巧みさがよくわかる。きっと練りに練った文と構成なのだろう。時間軸と地獄めぐりの符合も上手くて、完成度の高さにあらためて感心。

地獄の沙汰を前にして、単刀直入に発せられる皮肉のきいた鬼蜘蛛の言葉。閻魔に向けて容赦なく炸裂する毒舌。ぼろぼろの身体から抜けていこうとする魂にこめる、ありったけの想い。素敵なフレーズの数々の中から、いくつかを引用しておく。
(光は、見つめる者の瞳の奧にしまい込まれたものを映して見えるのだ。そして、言葉だってきっと、… そうだろ、鬼蜘蛛さん?)

『もし生きていた頃に此処の鬼達の存在を知っていたら、私は嗤っていたでしょう。民百姓は断食したいわけじゃなく、ひもじい暮らしをしているのだと。廓に売られた娘達は契りたいわけじゃなく、陰部に紙玉を詰めて孕み避けをしながら必死に稼いでいるのだと。なぁにが悟りだ、煩悩だ、馬鹿にするんじゃねぇよと』(その二 賽の河原のバベルの塔


『けれどそうやって、蜘蛛の生死を私が好きに決めて、実際に命を奪えたとき、私の中で疼いていた怒りと、蜘蛛を神仏の化身と思う心が、溶けて混ざっちまったんです。私の胃の中で、蜘蛛はあらゆる意味を持ちました。神仏の化身であり、怒りをぶつける矛先であり、生死を支配される弱い人の姿そのものになったのです。ねぇ閻魔様、蜘蛛を喰らい、その生死を好きにできたとき、私はまるで神のようでした』(その三 蜘蛛を喰らう)


『光とは、お天道様の明るい光だけを指すんじゃないのかもしれません。本当の光とは、地獄の炎に煽られて揺れる細く透明な糸の煌めきのように、小さく瞬いているのかもしれません。誰かが灯した真っ赤な炎に、己の魂が反射して輝くのかもしれません』(その六 或る救い)


『ならば野垂れ死んだ夜鷹として言わせていただきましょう。私は正しくもなく真面目ですらありませんでしたがね、必死に生きはしましたよ。真面目に生きるのと必死に生きるのに、優劣ってのがあるんですかい』
『人目を避けるようにして冬の最中に死んだとき、空には月が輝き、雪は明るく照らされていました。蒼白く輝くあの雪は、踏み荒らされる前に溶けることができたでしょうか。私の命を重ねた化身は、闇に凍えず温もりに溶けましたでしょうか』(その七 挙げ句の果て、死出の果て。)


昨日読み返しているときに、たまたまBGMにしていたのがジャニス・ジョプリン『コズミック・ブルース』(KOZMIC BLUES)。「みんな何処かへ行ってしまう もう25歳だってのに、あたしは何一つまともにできやしない」と歌う表題曲のジャニスの絶唱と、このアルバムの二年後には逝ってしまった短い人生が、鬼蜘蛛の姿にオーバーラップして胸に迫り、またも泣いてしまう。
ジャニスの残したもの、鬼蜘蛛が掴んだもの…ちゃんと届いてるって、こんなオレにも響いてるって、伝えたい。


そうか、「鬼蜘蛛日誌」もまたブルースだったんだな…
鬼蜘蛛とジャニス、まとめて供養してやる!「そのうち逝くから待ってろよ」と想いをこめて一吠えかましてから、並べてカメラに収めてみました☆