莫言/転生夢現(上)(下)

ちょうど一年前、NHK-BS2『週間ブックレビュー』で取り上げられていたのをたまたま見ていてインプットされ、気になってはいたのにずるずる後回しになっていた作品。
『地獄番 鬼蜘蛛日誌』がきっかけというか、「閻魔様つながり」みたいな、「地獄めぐり、もう一丁!」みたいな、次はこれいくしかないだろ的タイミング優先でやっと購入を決意(上下巻で六千円弱..)。書店を数軒回ってみたものの店頭にはなくて、アマゾンで注文。

人間が動物に転生して、動物目線で中国現代史を語るという設定の奇抜さに惹かれていたのだが、いざ読んでみると、期待していたファンタジックな要素は全然なく、「転生」はあくまで設定、革命に翻弄される近代中国の一農村の歴史を骨太なリアリズムで描いた大河ドラマだった。


莫言/転生夢現(上436P・下423P)/中央公論新社(090116-0123】


    


1949年新生中国の成立で訪れた急激な社会変化の中で、働き者であったのに突然悪徳地主の汚名をきせられ銃殺された西門鬧がロバ、牛、豚、犬、猿へと転生をくり返し、半世紀の時代の変遷の中で見つめてきた彼の一族の運命。

読み始め、キックオフと同時に右から左からゴール前にぽんぽんクロスボールを放り込むような大味な展開に「あれ?」と期待はずれな予感が。複雑な親子関係にある登場人物を把握するのと、一人称の「わし」が語る形式なのだが、誰が誰に語っているのかをつかむのに手こずって、すんなりと話が頭に入ってこず、なかなかページが進まない。
読者の意に反して莫言先生(作中で閻魔さまの書記の転生だと自称)、自由奔放というか変幻自在というか、気ままに脱線・暴走を繰り返して書き散らし放題、こちらの集中力もとぎれがちに。期待していた「現世に残した何かを求めての転生」とか「魂の放浪」みたいなロマンとはあまりにかけ離れた下世話で猥雑なリアリズムに、まだ800ページも残してギブアップしかけた‥‥ そういう小説ではなかったのである。

 ロバになるのは嫌だったが、ロバの躰から抜け出すすべはなかった。西門鬧の無念の思いが、灼熱の岩漿のようにロバの体内を駆けめぐる。ロバの習性や好みも、押さえがたい力でむくむくと湧き上がってくる。わしはロバと人間との間で揺れ動いた。ロバの意識と人間の記憶が入り混じり、ともすれば分裂したがったが、その結果もたらされるのはより緊密な融合であった。人間の記憶ゆえに苦しみながら、ロバの暮らしゆえに喜ぶのじゃ。ああ…情けなや!


革命の進行〜文革毛沢東の死をはさんで改革・開放路線へと転換していく第二・三部(牛、豚へと転生した時代)は、日本人の自分には想像もつかない事態でもあって、興味深く読むことができた。
まだ電気も届いていない地方の山村に押し寄せる「革命」、農民たちの新しい時代への希望と公社化の混乱が生き生きと描かれていて、こういう生命力に満ちたタフな文章は今の日本人作家では書けないだろうと思った。
中国共産党の意向に右往左往しつつも、実は自らの信念もあやふやで散漫な登場人物たち(みんな俗っぽい。いや、この時期に高尚な人間などいなかったか)の中で、唯一、断固とした気概を持つ農民・藍瞼の存在が、一本の太い幹となっている。
藍瞼に飼われていた転生牛の壮烈な最期には、号泣。。。家畜であるはずの牛が見せる主人への忠誠、革命に浮かれた人間の鞭や暴力への不屈…

 死んだか?死んではおらぬぞ。堅く目を閉じたあんたは、頬には鞭の先で裂かれた傷口があり、血が地面を染めていた。激しく喘ぎながら、あんたの口は泥に突き刺さっていた。激しく震える腹は産みかけの牝牛を思わせた。
 これほど頑強な牛は見たことがないぞと、あんたを叩いた連中は心底感嘆していた。連中の表情はいささかぎこちなく、どこか恥じらいの気配を浮かべていた。叩いたのが猛然と反抗する牛であったなら、連中としても納得がいくところだが、逆らいもしない牛をぶっ叩いたわけで、そのことが連中の心に疑惑を生ぜしめ、昔からの道徳規範や神鬼の言い伝えなどが心を騒がせたのであった。こいつ、これでも牛なのか?神かもしれぬし、仏かもしれぬぞ。こうまでして苦痛を堪え忍ぶのは、道に迷った人間を教化して悟らせんがためではあるまいか?

※ちなみに、このあとがもっと壮絶...


途中、本筋とあまり関係のなさそうなところは斜め読みしつつも、このシーン以外にも文章に釘付けにされる部分が随所に現れ、気が抜けないのだ。

開放期に入った八十〜九十年代を描いた第四・五部は、一族内の愛憎劇が中心。農民から党幹部へ昇進した者も、もともと薄幸だった者も、いずれも悲劇的な結末を迎えることになる。

緩んだり、締まったり、放り出されたかと思うと引きずり戻されたりと、終始翻弄されつつ読了。
緻密な構成とか詩的な叙情は薄く、音でいえば「一発録り」の荒々しさで全編押し切った感じ。冗長で通俗的な語り口と土着的な生活臭のどぎつさに辟易とすることもあった。ただ、ざらざらした残酷さの中に、ときどき、しっとりとした幻惑的な美しい光景も描出されて、あれやこれやの騒動が儚く散るさまは、荒むばかりでもないのだ。

 …このようにしてセックスし彼女を愛するうちに、目隠ししておれを暗い部屋に引きずり込んで激しく殴打した下手人どもへの憎しみが、おれの中でもはや消えていた。連中は片脚の骨を傷つけただけで、ほかの部位の傷はどれも表皮にとどまっていた。連中は殴打術にたけていて、客の求めに応じてステーキを焼く腕にいいコックのようだった。下手人たちだけに止まらず、あの殴打の場面を用意した者への憎しみも消えていた。おれは殴られるべきだったのだ。ああして殴られることなく春苗とのこうした愛情を手にしていたら、おれは心に恥じ入り、不安に苛まされていたに違いない。だから、下手人とその雇い主におれは心の底から感謝感激したのだ。謝々…謝々… 真珠の煌めきを見せる春苗の瞳におのれの顔を見つけたおれは、蘭のような息を吐く彼女の口から同じ言葉を聞いた。彼女は切れ切れに言うた。謝々…謝々…


昨年『神なるオオカミ』を読んで、「生産大隊」「下放」「労働点数」とかの文革用語を知っていたので立ち往生せずにすんだ。そういえば、この頃は「自己批判」とか「造反有理」とか聞かなくなったな…
かつては反共メディアが「これが革命の実態だ!」と仰々しく書いたであろう共産党幹部の腐敗や紅衛兵の横暴ぶりが、今では中国本土を代表する大衆文学のネタとして書かれているのも時代の変遷ということなのか。
冷静に考えてみれば、転生の必然性はあまりないような気もするのだが(笑)、莫言先生の力技で読み切らせられました。
共産主義への移行から現代に至る五十年に渡る年代記、地方農村のドキュメンタリーと、革命の進行と衰退にからみ、もつれ、変転する家族の愛憎劇、それに莫言の冗舌な妄言をごった煮したような異種交配風味の強烈な小説だった。


話しは少し飛ぶけれど…、
たとえば、戦後の五十年をこのように、ある家族・一族の三代にわたる物語として書いた作品が、今の日本にあるだろうか?あったとして、この莫言作品のように他国で読まれることがあるだろうか?
原爆や本土空襲の被害もあっただろう、天皇制と戦争責任の問題もあるだろう、沖縄やアメリカのこともあるかもしれない。そうしたタブーに、言葉こそ文学こそ風穴を開ける道具であるはずだ。日本ではいまだにシリアスなノンフィクション調になるか、ノスタルジーにどっぷり浸るだけに終わる世界を、中国の作家は易々と笑い飛ばすかの勢いで書いて、現代人がどこに立っているかを再提示してみせる。語り継がれるべきものは、もっといろいろな形で語られるべきだ。もっといろいろな形で残しておくべきだ。
このエネルギー…… 大陸的なおおらかさだとか、したたかさというだけではない気がする。毛沢東の時代をけして揶揄するでもなく、ことさらに美化するでもなく、こうして堂々と泥と血と汗にまみれた小説に取り込んでしまえることに、中国の大きさを感じないでいられなかった。