小川洋子/猫を抱いて象と泳ぐ

潜水服は蝶の夢を見る』みたいなタイトルだなぁ、と思いつつ本を開くと、チェス盤のイラストが。白と黒の駒が配置について、物語の始まりを待っている。
おばあちゃんとバスで行くデパート、屋上のこども遊園地、お子様ランチ。なつかしい光景が優しい語り口でつづられ、お伽話みたいにお話は進んでいく。


小川洋子/猫を抱いて象と泳ぐ(359P)/文藝春秋(090125-0126)】


     


寡黙で孤独な少年がチェスと出会い、その世界に没入していく。廃バスで暮らすマスターに手ほどきを受けながら、少年は棋盤の下にもぐって駒の動きを読むという独自のスタイルを確立する。やがてチェス用のからくり人形の操作役となった彼は、海底チェス倶楽部の「リトル・アリョーヒン」として盤に美しい詩とメロディを刻んでいくのだが…

「駒の並べ方、動き方を教えてくれたのが誰だったか、それはその後のチェス人生に大きく関わってくると思いません?チェスをする人にとっての指紋みたいなものね」
話を続けながら、老婆令嬢は、ナイトをc3に跳ね出した。
「一度刻まれたら一生消えない、他の誰とも違うその人だけの印になるのです。自分では思うがままに指してるつもりでも、最初に持たせてもらった駒の感触からは逃れられない。それは指紋のように染み付いて、無意識のうちにチェス観の土台を成しているのよ」


全然チェスを知らないのに、読んでいると、コツ、コツ、と駒が盤上を動く音が聞こえる気がしてくる。実際には思索の時間の方がはるかに長いのに、何も起こらないでいる空間にも交感、応酬が行き交い、詩句が浮かんでは消え、調和して共鳴していくらしいのだ。
ひそやかで、つつましく、言葉を味わいながら耳をすます。しばし目をつむって、8×8の宇宙を思い描いてみる。始めのページに載っているチェス盤の絵に戻ってみては、ゲームの展開を想像してみる。チェスの場面では、そんな楽しい時間を体験できる。
だが、胸につかえたもどかしさ、息苦しさは物語の進行とともに大きくなっていった。

「(心の底から上手くいってる、と感じるのは)相手の駒の力が、こっちの陣営でこだまして、ボクの駒の力と響き合う時なんだ。そういう時、駒たちは僕が想像もしなかった音色で鳴り出す。その音色に耳を傾けていると、ああ、今、盤の上では正しいことが行われている、という気持になれるんだ」
「つまり、最強の手が最善とは限らない。チェス盤の上では、強いものより、善なるものの方が価値が高い。だから、坊やの気持は正しいんだよ」

…うーん、、、とはいっても、対戦相手からしてみれば、この少年の指し方には戸惑わされ、ひどくやりにくく感じるのではないか。美しいけれど、少年の内面を代弁するばかりの一方通行な文章も気になる。
マスターは、相手の駒をより良くみるためならと納得して少年のやり方をなおさなかったが、それは果たして少年にとって幸福なことだったか?(マスターが少年に進言しなかったように、誰もマスターに忠告しなかった。それでマスターはあっさり死んでしまう)

初心者の自己流を、才能ある未熟者の変則を、なぜ誰も正統へ導こうとしなかったのか?それが現実的なおせっかいでメルヘンを破綻させる畏れがあるとしても、この男の子の凪いだままの湖面にさざ波を立たせ、雷鳴の予感に身震いさせ、その果ての新しい道を指し示すべきではなかったか?
もし彼のチェスが詩句を生みメロディを奏でるのなら、彼を表舞台に引っぱり出して、その豊かな詩情を解放してやりたいという想像力は、抹殺されてしまっている。異能がゆえに美しいというのは偏見でしかない。

なんだか、美しい物語として成立させるため、物語の静けさを保たんがために、リトル・アリョーヒンをわざわざ狭い世界に閉じこめて、息をひそめさせ、言葉を殺して人形の中でしか詩を紡がせない、そんな暴力を感じてしまったのだ。
生まれたときに口唇がくっついていて彼から泣き声を奪ったというエピソードも、大きくなることが悲劇だと思いつめて、成長を止めてしまうことも。無垢なまま人形に押しこむための作為だったとしたら…

「何せ神様がなさることだからね。目か、耳か、喉か、とにかくどこかに、普通の人にはない特別な仕掛けを施して下さったのさ。きっとそうだ。間違いない」

伊坂幸太郎じゃないが、「神様のレシピ」がここにあったとしたら、これはむごいことじゃないか?‥運命だなんて錯覚だ。


姿を隠して、こんな限られた条件のもとでしか試合ができないのに、はたして本当にこの子がチェスを愛したといえるのか?これだけチェスの深淵を書いておきながら、ずいぶん悟ったようなことを語っていながら、この子はチェスで救われたか?
この子は大人の予定調和的な美しさの犠牲になったのだ― なんて深読みしすぎ?変な読み方してるかな?でも、これを「小さな奇跡」なんて呼ぶ側に、オオカミ族として立つわけにはいくまい。
生きてそこにあってこそ…と思うのは、ミイラとの手紙チェスが、きっと彼の残した棋譜のなかで最も美しかったはずだからだ。思うがあまりに文字は乱れ、手紙は汚れてしまってはいても、そこには確かな彼の息吹があったのだから。


少年にとって「リトル・アリョーヒン」の人形は、屋上の象インディラの檻、ミイラの両側の壁、マスターのバスと同じになり、お伽話は寓話めいた終わりを迎える…
ほとんど一日で読んでしまったのは、もちろん楽しく文字を追ったのだ。素敵な文章もたくさんあったし。読んだあとでこれだけ不満が生まれてくるのも、それだけ主人公に肩入れしていたからだ。
ラストはやっぱり、少しホロリと来た。でもそれは、リトル・アリョーヒンが幕を開けて自分から姿をあらわす希望がかなえられなかった悔しさも、少しあったのだ。