佐藤亜紀/バルタザールの遍歴

数年前から気にはなっていたものの、食わず嫌いを決め込んで敬遠していた佐藤亜紀さんの本。好きか嫌いか、まず一冊読んでから決めよう!となぜか挑戦者みたいな心持ちで本を開いた…… 
実は今月が「女性作家月間」になりそうだというのも、佐藤亜紀作品を数冊まとめ読みする予定だからだ。いわば「佐藤亜紀への耐性をつくる二月」。うーむ、どうしても身構えてしまうんだよなぁ。


佐藤亜紀/バルタザールの遍歴(339P)/文春文庫・1991年(090207-0209)】


     


二十世紀初めのウィーン。ハプスブルク王国の崩壊で没落した青年公爵。彼の躰には二人がいる。メルヒオールとバルタザール。父の死後、家も財産も失い、ナチスの台頭もあってウィーンを離れ、パリ、チューリヒ北アフリカへと放蕩を尽くして身を持ち崩しながら流浪する。やがてアルコールの霧の向こうに、自分たちを陥れた者の姿が見えてくる…

双子でも二重人格でもなく、躰は一つでも二人なのである。行動しているのは一人でも「私たち」なのだ。どちらかが語り手で、ときどき間の手というか、もう一方が口を挟むのだが、そのやり取りや言い合いが自然でかつ可笑しかったりする。特に凝った仕掛けがあるわけではないのに、すんなり読めてしまうのがまた可笑しい。

 バルタザール、と言って彼女は私たちの片頬にキスをし、メルヒオール、と言って反対側にキスを繰り返した。「あなた方に会えて嬉しいわ」
 何か気の利いた返答がしたかった。だが何も口にできなかった。私は彼女の笑みに魅了された。だが、私以上にバルタザールが魅了されていたことには気が付くべきだったのだ。……おや、何も言わない。


成長するにつれそれぞれの個性が強くなり、肉体的行為をめぐっての内なる諍いも起こる。ときどき一方が、相方に内緒で躰を離れて「非物質的実体」として活動し、それがもとで二人の間に確執が生じたりもする。さらには他人の体内に入ってしまうこともできる(肉体を乗っ取ってしまう)のだが、窮地に立たされてもこれらの行為を無闇に用いないのは、彼らの実体を理解する唯一の人物の下衆っぷりとの対比として、彼らが真に貴族的であることを明らかにしているようでもある。

斜に抱き抱えるようにして、私は彼の中に入り込んだ。壁を抜けたりするよりは遥かに容易だった。エックハルトは狂ったように金切り声を上げ、虚しく床を転げ回って私から逃れようとした。私はしばらく、声だけ殺して、彼がしたいようにさせておいた。少しずつ、手や足が彼の思うように動かないという事実を思い報せながら。駱駝に乗るより簡単だ。伊達や酔狂でバルタザールと三十年も肉体を共有してきた訳ではない。


始めは、デカダンな没落貴族の話かと思って読み進めていたのだが、途中ではたと思い出す「これって、ファンタジーなんだよな?」 肉体遊離する場面も実は、数回しかないし、物語中の比重が特に高いわけでもない。ファンタジーかどうかなんてことはさておき、一つの物語が兄弟の分離で二篇に分かれていくのかと思いきや、片方が死んだら残った方はどうなるのかという危機を回避して、一つに収斂していく。

十九世紀末の頽廃の余韻。大恐慌。戦争の影。ナチス、アリストクラート、ボリシェビキ。先の見えない重苦しさが充満している時代を重厚な文で描いて、設定の奇想を些かも感じさせない。主人公が「双頭の怪物」であることを忘れさせてしまうこの文体こそがファンタジックにも感じられる。
海外文学の翻訳を読んでるような感じ、とでも言ったら良いだろうか。それも英語やラテン語ではなく、まぎれもなくドイツ語の、あの厳格な感じを日本語にするとこうなるんだろうなという文体。
佐藤亜紀さんのデビュー作にしてファンタジーノベル大賞受賞作(1991年)なのだが、二十代でこんなの書くかよ?!という凄作。

恐らく、まだ野蛮だった時代の私の祖先はこのカウンターの中にいるような男だったに違いない。その祖先が今ほど私が剥奪されてきた名前に栄光を与えたのだ。今となっては失われ、カウンターの小さなヒエラルキーの中では最下位の私自身にさえ過去のものになってしまった名前を。かつてこの世の秩序には曲がりなりにも高貴な部分があった、と溜息混じりに私は夢想した。だが結局のところ、高貴とは野蛮によって維持され、文明によって滅ぼされるものなのだろう。今やそのささやかな残滓さえ、世界の中心からは追放され、この世の果ての酒場のカウンターで細々と生き残っているに過ぎない。


※2002年の『ユリイカ/矢川澄子追悼号』の対談の中で、佐藤さんは「これで賞をとれなければ死ぬつもりだった」と語ってます。ファンタジーノベル大賞の選考委員の一人が矢川さんで、この作品を強く推したらしい。それから矢川さんは佐藤さんに遊びに来るようにとよく誘っていた、とのこと。
この対談記事を読んで、「矢川澄子さんのお気に入りの作家」として佐藤亜紀さんが気になっていたのです。