佐藤亜紀/天使

佐藤亜紀シリーズ二冊目。


佐藤亜紀/天使(294P)/文春文庫・2002年(090210-0214)】


     


二十世紀初頭のウィーン。「感覚」を持って生まれたジェルジュは大公に仕える顧問官に育てられる。異能者の諜報機関に属しサラエヴォに端を発する戦火の拡大の中で、能力を駆使した外交・諜報活動に奔走する。


『バルタザールの遍歴』でもそうだったが、この作品でも登場人物の人間関係や主人公たちを取り巻く状況は詳しく説明されないまま物語は進む。ジェルジュに具わった能力とはどういうものかということすら「感覚」としか知らされない。
能力者を扱った小説では、力を自在に操る前段階の自分の能力を高めてコントロールできるようになる過程が重要になるが、この作品でのジェルジュが訓練を積む場面(P37-P47)の描写は、中でも白眉だ。派手な物理的現象を引き起こすわけでもなく、徹底して感覚的な現象を文章にしていて、凄い!

 目を瞑り、五感が感覚を捕まえておこうと狂いだすところまで押した。体が振り切られるのを、ほとんど興奮とともに感じることができた。一度めの時計の音を無視した。耳に聞こえていた音が絶えた。目の前が暗転し、体の下にあった椅子が消えた。暗闇の中に投げ出された。もう一度鳴るまで、と自分に言い聞かせた。体が消えた。自分が虚空の中で小さな渦を巻いているのが感じられた。

 用心深く、ゆっくりと、ジェルジュは感覚を解放した。五感の軛から解き放たれ、体を抜け出すのは、冷たい水に実を委ねるように心地良かった。ひと掻きで上下も何もない空間に漕ぎ出し、水面に浮かぶように自分を拡散させた。無数の何かが揺らぎながら姿を現した。見ても、感じてもいなかった。ただ、名付けようもない全てがそこにあるだけだった。水紋が広がるように、様々なものが次々に立ち現れた。その度、世界は揺らぎ、軋みを上げた。


オーストリア帝国の崩壊に至る中欧地図の激変を時間軸に沿って忠実になぞりながら、もう一方では個人内の宇宙的感覚を描いて同居させる。力技でなく、まったく自然に。読んでいると登場人物すべてが能力者のようにも思えてくる。
諜報活動をするのが能力者たちだからといって、彼らが関与する政治外交が思惑どおりに進むわけではない。裏切りや私欲に溺れての裏取引、仲間の死と自らにも迫る死の危険を経験してジェルジュも冷酷非情に徹する反面、穢れもしていく。
顧問官の指令に疑惑を覚えながらも徐々に危険度の増す任務を遂行していくジェルジュ。ここにはもはや能力への幻想などない。あるのは組織への見せかけの忠誠といくらかの自惚れた利己心だけだ。
不思議なことに、顧問官の最高傑作として他の能力者を凌駕し冷酷・虚無を極めていくほどに、彼が人間的になっていく気がした。

 無力感も恐怖も感じなかった。灰色の群れの咆哮をを傍らに聞きながら、ジェルジュは内側の深い場所を音もなく流れる昂揚に気が付いた。何度でも負かせばいい、と思った。幾ら打ちのめされても、少なくとも自分は、昂然と頭を上げて次の世界に入っていくだろう。


ありきたりの言葉を使えばサイキックということになるのだろうが、彼が闘っているのは感情を殺した壮絶な心理戦なのである。「頭を開ける」怪物的能力者が彼の前に立ちふさがるが、ほとんど恐怖心などない。
誰をも疑わざるをえない権謀術数の渦中で肉親に再会しても、ほとんど心は動じない。ただ、感覚を絡め合い干渉を許すことができる女との交流だけが(ここの描写が儚く耽美的で良い!)彼に一時の充足をもたらす。

 拙いな、と思いながら、ジェルジュは更に一杯を飲んだ。銃口をくわえて引き金を引くのが自然なことにさえ思えた。僕は正気か、と自問した。精神に変調を来した兆候はない。幾らか草臥れてはいるが、判断力に影響が出るほどではない。怒りにも悲しみにも駆られてはいない。むしろそうした感情が懐かしいくらいだ。そんな状態でなら、或いは、死んでも構わないのではなかろうか。


おそろしいまで無機的なのに、妙に生々しさの残る文章。徹頭徹尾、淡々とクールに言語化され羅列される意識の揺らぎ。文体が主人公の人格を顕すのか、主人公が文体を決めるのか。どちらにしても、文体と小説の性格がこれほどまでに合致した作品は、そう滅多にないだろう。
もう少し大戦前後の欧州の地理・年表が頭に入っていれば、もっと良く分かっただろうな、と思いつつ読了。でも確かに「佐藤亜紀への耐性」はついてきたと思う!

続編であるらしい『雲雀』も今日から読み出してます。