皆川博子/死の泉

日本人が書く外国を舞台にした小説がどうも苦手だったのだが、佐藤亜紀さんを続けて読んで苦手意識も薄らいだ。で、やはり疎遠だった皆川博子作品。
個人的には小説に限らずゲルマンの文化が好きではなかったのだが(サッカーやクルマ等でも)、ここ何年かクラシックを聴くようになってだんだんそれも変わってきた。フルトヴェングラーナチスの関係、迫害を逃れて亡命した音楽家たち。音楽を通じてドイツへの興味は増してきた。(でもドイツのサッカーは好きになれないんだけど)
今回は皆川博子さんのナチスをテーマにした作品を二冊、読んでみます!


皆川博子/死の泉(427P)/早川書房・1997年(090221-0226)】


         


第二次大戦下のドイツ・バイエルン州アーリア人種の純血を維持する目的でナチスによって設立された産院・孤児養護施設で未婚のまま出産したマルガレーテは請われてエリート医師・クラウスと結婚する。養子として迎えたドイツ化された幼い兄弟とともにクラウスの庇護下で恵まれた生活を始めたのだったが…

第一部はマルガレーテの手記という形で敗色濃厚なナチス政権下でのクラウスとの暮らしが綴られていく。クラウスが勤務する施設の実態と、彼の美への異常な執着―美しい声を持つ養子の少年エーリッヒへの偏愛が明らかになっていく中、生まれたばかりの息子ミヒャエルを守るために彼女の苦悩は深まっていく。

 急ごしらえの、寄せ集めの、家族。
 家長・クラウスへの恐怖を靱帯にして、繋がれている家族。彼への愛と信頼が、わたしに一筋もないわけではない。いっそ、憎悪と恐怖だけであれば…。

ドイツ芸術への狂信的な愛情と祖母の土着的なお呪い、ボーイソプラノカストラート(去勢歌手)。美しいジプシーの少女を肉体改造してドイツ人女性として妊娠させる。朽ちていく古城と、そこに隠された芸術の名品。美と恐怖を静かな押し殺した文章で相反させ、美を強制するクラウスの狂気がじわじわと滲み出してきて圧迫感を増していく。
ゲルマン民族の血統を重んじるクラウスは他民族の子供でも条件(金髪碧眼)に合いさえすれば攫ってきてドイツ化する第三帝国そのものとして描かれる。信念に基づく彼の研究の人体実験はおぞましい。だが、彼が父親として子供を教育することに対抗できない空気が、もっと恐ろしく感じられた。

 「人種的にすぐれたものを、ドイツに集める。ポーランドなどには、劣等人種だけを残す。フューラーとヒムラー長官が決定した方針だ。世界のすべてのよい血は、ドイツに集められるべきだ。我々は、全世界からゲルマンの血を探し出し、奪う。子供は成長し、交配し、種を増やす。三、四十年後には、ドイツ国民の大半は北方系アーリアンに改良される」  ※フューラー=総統・ヒトラー


二部・三部はドイツの無条件降伏から15年後のクラウス一家をめぐるストーリー。マルガレーテの妊娠を知らずに出征していたギュンターが彼女と再会を果たし、エーリッヒとフランツの兄弟の復讐劇に極右組織の存在が絡み、もつれあっていく。

ナチスSSだったはずのクラウスがアメリカに亡命できたわけが興味深い。ドイツの技術・科学者がソ連に流れるのを恐れたアメリカが、積極的に彼らを受け入れていたこと。

「勝者の戦利品としてアメリカは何を欲しがったか。対ソの情報と、ドイツの科学者の頭脳だ。優秀な科学者とその研究成果を、米ソどちらも、熱烈に欲した。ところが、優秀な科学者でありながら非ナチ、非SSという者は、ドイツ国内には絶無だったのだよ」
(中略)
アメリカはたぶん、ドイツ以外で一番ナチに愛をそそいだ国家だ」

(形は違うが、アメリカに逃れたユダヤ人音楽家もかなりいて、彼らがアメリカ音楽界で果たした功績はとても大きい)


後半は、「天使の歌声」を持ったエーリッヒの運命や、繰り返し語られていたマルガレーテの幻視「歌う城壁」が象徴して通底していた神秘的な美しさは薄れ、やや強引・不自然な展開になってしまう。一気読みの予感もしぼんでしまった
一同が集まった最後にどんでん返しとして明かされるエーリッヒの真の姿は、かえって家族を分裂させてしまうものだったような気もするし… (この結末のためにマルガレーテはずっと心神喪失状態ということにされていたのか?)
結局はナチスの影を引きずったまま微塵も揺らがず、美を閉じこめて永遠のものにしようとするクラウスの不気味さの前ではすべてが霞んでしまっている…という感じ。
ストーリーと平行して、ナチスの崩壊の過程が面白く読めたのは収穫ではあったけど。



090315更新 【人類最後のカストラート:アレッサンドロ・モレスキの声】
リリースとなったアルバム『ALTUS 奇跡の声−美しきカウンターテナーの世界』には、1922年に亡くなった“最後のカストラート”といわれるアレッサンドロ・モレスキが、1902年にバチカンシスティーナ礼拝堂で録音した非常に貴重な音源が収録され、話題となっている。
『ALTUS 奇跡の声−美しきカウンターテナーの世界』