皆川博子/総統の子ら

昨年秋〜今年始めにかけて時代/歴史小説を数冊読んで、いまさらながら、なぜだか異様に信長〜秀吉の時代に詳しくなってる自分がいた。職場で「信長とか細川ガラシャについて知りたいことあったら何でも聞いてください!」などと言って同僚を怪訝にさせたり(笑) 
今は、二十世紀初めのドイツ・オーストリアに詳しいのだ。多分、同時期の日本のことより知っているような…

『死の泉』から遡って第二次大戦前のドイツ。皆川作品の二冊目は、やっぱりヘビーでした。


皆川博子/総統の子ら(619P)/集英社・2003年(090228-0305)】


14歳でナポラ(エリート養成学校)に入校し空軍パイロットを目指すカール。同期のエルヴィンの従兄であり先輩でもある若きSS将校ヘルマンへの憧憬と祖国ドイツへの忠誠を胸に厳しい訓練を耐え抜き、「ヒトラー・ユーゲント」(ヒトラーの若者たち−ナチスの青年組織)としてSSに入隊を果たす。再武装によって「強いドイツ」の復活を目指すヒトラーポーランドとの開戦に踏み切り、破竹の勢いで東進する。カールも対ソ戦に従軍、死と背中合わせの戦闘に明け暮れる日々が始まった…


     


寄宿舎生活であるナポラでの日々を描いた前半は、国家の未来を担うという大きな目標と自分への自信のなさで揺れる思春期の少年の心情を巧みに書いてある。暴力的な存在としてマックス、内省的な存在としてエルヴィンを近くに配して、カールが優等生であることが伝わってくる。格好良い先輩であるヘルマンの扱いも、開戦前の復興で活力に満ちていたであろうナチスドイツの象徴として分かりやすい。人物描写と人間関係でその時代の空気を表現できているのは、さすがだと感じた(思春期の男の子、エリート将校の描き方にいかにもな女性的な視点、というのもけっこう目につくのだけれど)。
ただ、これはあくまでも日本人作家による日本向けの作品。これが翻訳されてドイツ本国で読まれるということは、ちょっと考えにくいな、というのも正直な感想。

半ば眠りながらヘルマンの想像は動く映像となって流れた。飛翔する馬。御する彼自身。ひるがえる国旗。「世界に冠たるドイツ」の吹奏。観覧席で立ち上がり拍手する総統。あの無邪気にさえ見える笑顔。 ―突然、天子に抱きしめられた人間は、より強い存在のなかで滅び、…。リルケの詩の一節だ。熾天使に抱きしめられて滅びるのは、死の最高のありようだ。ギムナジウムで総統の演説を聞き、握手をされたあのときに、一度死んだ。半ば灰になった。だからこそ、どこまでも高々と飛翔できる。金メダルを首にかけられ、表彰台の上で総統と視線をかわし、彼の拍手を受けたら、二度目の死を死ぬだろう。三度目の、最後の死を死ぬまで、彼のために生きるだろう。


作品中でも戦局の説明に多くのページが割かれていて、小説というより歴史教科書みたいな感じで読んだ。ヒトラーヒムラー、連合国側のチャーチルスターリンの声明も要所に記述されていて、もちろん面白い教科書として読めた。
そういえば『ミノタウロス』にも似たような場面があったな…(あちらはロシア革命後だったが)。そうか当時のウクライナ人にとってはドイツは解放軍だった。ポーランドでの反ユダヤ感情はドイツ以上に強かったのか。ルーズベルトアメリカが当時はソ連を支援していた…などとあらためて確認しつつ。

 ピアノの上には額に入れた亡母の写真と総統の写真が飾ってある。ヘルマンが総統の額を他の場所に移すまで、調律師は身をこわばらせていた…と思い出しながら、二つ折りの紙を広げた。五線紙に手書きで譜が記されてあった。
 ヘルマンは音符をたどり鍵盤に指を走らせた。だれかを抱きしめ、だれかに抱きしめられずにいられない気分になる。
 あの痩せた小柄なユダヤ人は、一つの作品を世に生み出したのだ、とヘルマンは思った。彼が創り出すまで、この曲は世界に存在しなかった。
 自分は何も創出していない。軌跡をふりかえると、そこにあるのは死と血のみだ。まだこの先に、死と血はつづく。


後半は東進したもののソ連軍の攻勢とパルチザンの出没で苦戦を強いられるドイツ軍の戦記物の様相を呈し、ストーリーとしての面白味は薄まる。というか、実際の戦局の推移、国家間の駆け引きの方が興味深くなってしまたのだが。兵卒のカールより、特殊任務に就き戦地の住民と関わらざるをえないヘルマンの行動が多くなる。ハードな戦闘場面とゲリラとの局地戦、非戦闘員である市民を含めた捕虜の大量虐殺… 理想に燃えていたカールとヘルマンのナポラ時代の回想場面が折々はさまれるが、直面している現実の酷烈さの前には幻想でしかない。もっとも、カールが少年期に抱いていたコンプレックスも同時に消滅してしまうのだが。
ドイツ軍進駐〜パルチザンの抵抗〜誰が敵なのか味方なのか分からない状況での殺人行為についてのヘルマンの苦悩も、小説的にピックアップされた一エピソードに過ぎないと読んでいて感じられるほど、1942、3年の欧州の戦場は混沌としていたのだろう。
正邪、善悪なんてないのだ。ホロコーストを戦後になってから知り、当時はソ連赤軍の残虐非道ぶりばかりを怖れたドイツ側を主人公に書いてしまえば絶対に嵌る罠を超えられない。年表と刻々と変わった地図の変化に頼るしかないと分かってはいても、それでも触れずにはおかれない部分…

そう考えると『ミノタウロス』は、あれはあれでありだったのか…と今になって思ったり。


日本での欧州大戦に於けるドイツというと、もっぱら「悪役」としての扱いが定着しているが、欧州では(当然ながら)日本人には到底理解できないような、もっと複雑な人種・民族的な絡みや歴史的な遺恨があって、それらをふまえた上で現在でも「反ナチ」「反戦争」が叫ばれるのだろう。
サッカー欧州選手権やW杯予選でドイツvsポーランドセルビアvsクロアチアなんてカードが普通に実現しているのは、すごい確執があった上でのことなのだ。
翻って日本は………、と考え出せば小説からはどんどん遠ざかってしまうので止めておこう。
ドイツに対する見方は、変わった。好きになったわけではないけど、知らないでいたことがたくさんあって、もっと知っておきたいと思う。知っておくことしか出来ないのだとしても。


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《メモ》

  • ・ドイツ(当時は西ドイツ)元大統領ヴァイツゼッカーの1985年・戦後40周年記念演説(「荒野の40年」演説)

     「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となる」

  • ・欧州最大級のモスクを建設中のドイツ・ケルンでネオナチ勢力が開催予定だった「反イスラム化国際会議」が市民の圧力で中止に追い込まれた。会場に向かうバス・タクシーが参加者の乗車を拒否し、ホテルも記者会見の使用を拒否。当初は千五百人規模の大会が見込まれていたが、当日予定時刻に会場にたどり着いたのはわずか五十人ほどで、開催は阻止された。(昨年の記事