千早茜/魚神(いおがみ)

ああ、まただ。『地獄番 鬼蜘蛛日誌』と同じだ。書店で妖しいオーラを放っていた。仰々しい文句の並ぶ帯と表紙ばかりが素敵なエンタメ・ミステリー作品群の中に、ぽっかりとブラックホール。吸い寄せられた。中身なんか見なくてもわかる、これはオレが好きな本だって。
貪るように読んでいるうちに、食虫花に止まってしまった虫の如くに騙りの毒に痺れさせられて本に喰われていく、それを切望する感覚。
夕闇迫る頃、できたら電灯をつけないで薄暮の光で読んでしまいたいと逸る気持ちと、終わりを迎えるのを惜しむ気持ちが渦巻いて、後頭部がじんわり熱を帯びていた最後の十数ページ。


千早茜/魚神(いおがみ・259P)/集英社・2009年(090307-0308)】
第21回小説すばる新人賞受賞作

かつて一大遊郭街だったという寂れた孤島。捨て子の姉弟として婆に拾われた白亜とスケキヨは互いを己の分身であるかのように深く結びついて育つ。掟に従って生きるしかない島の生活に生の実感を得られないままの白亜には、薬の知識を身につけ島民に認められつつあるスケキヨだけが家族以上の絆を感じる存在になっていた。やがて美しく成長した二人は当たり前のように色街に売られて別々の人生を歩み始めるが…


       


引き裂かれた二人が再びめぐり逢うために流された血は、数年間の互いの不在を埋めるために捧げねばならなかった血だ。白亜の流血をスケキヨが贖う。島の掟に抗い白亜を救い出すためにスケキヨが定めた掟によって。あらかじめ仕組まれていた運命(さだめ)であったかのように。
あるいはスケキヨこそが本当に、伝説の高貴漂う白亜を護るためにつかわされていた獏の化身だったか?

…その様子を見ると、私達は自分の痛みを忘れ片方を癒し慰めようとした。いつも、被害を受けた方から先に微笑んだ。自分の身に何が起きてもスケキヨが笑ってくれさえすれば、私はもうそれで良かった。スケキヨにとっても同じだっただろう。私達はあらゆる想いを共有し、二人の間だけで受け渡し、その温度を下げ、静かに消化していく術を自然に身につけていた。私達は完全な対だった。

一人が傷つけば、もう一人も傷を負い、出血すれば、片われも血を流す。そうすることでしか癒し合えない。島のしきたりにがんじがらめの中で生きていくための二人の間だけの密かな契り。それは残酷な関係でもあるのだ。


終始白亜の一人称で語られるために、二人で一人との思いは白亜が一方的に抱いていただけなのでは?という疑念はぬぐえない。裏華町でスケキヨが何をしていたのかも明らかにされない。が、謎は謎のままで良かった。
男性としてのスケキヨを受け入れなかったことで、初めて二人の間に生じた亀裂。放置した傷は、深く、広くなるばかりだ。虚ろな肉体に情痴の薄い膜を幾重に塗り重ねても、すぐに剥がれて前より広い傷口が顔を出す。

 ふいに、それまで私を包んでいた空気が密度を変え、重く体に圧し掛かってくる。ぐっと胸が締め付けられるような、空気を通す喉の管が細くなったような息苦しさが私を襲う。自分は呼吸をしているのだ。吸って、吐いて、吸ってと普段意識していなかった行動を、手繰り寄せるように必死に思い出して行わなければいけなかった。そうして、目に涙を浮かべながら、少しずつ小さく息をしなくてはいけない夜が月に二、三回あった。


かつての記憶のままの美しい存在でなくなってしまった今、惹かれ合うがゆえに遠ざけてしまう。大事だからこそ突き放してしまう。穢れた自分を恥じらうのは、未成熟なゆえか、思う気持ちが強すぎるためか?相手に対して自分がかつての自分ではないことは罪なことなのか?
だが、自分で思うほどには人間なんて変われないものだし、どのみちこの島では全てを受け入れるしかなかったではないか。

「なあ、お前、今ならスケキヨを受け入れられるのか?」
 意地悪そうに笑いながら、蓮沼は聞いた。私はそのことについて思い巡らせた。力の抜けた体がぴくりと動き、たった一粒だけ涙が零れた。私は慌てて起き上がった。蓮沼は驚いた顔をしていたが、煙草に火をつけると「妬けるな」と冗談のように呟いた。


婆の家と娼館の座敷しか知らなかった白亜に、スケキヨがつくり変えた島の風景はどう映ったのだろう。ほの暗い水面から立ち上るぼんやりとした靄に包まれたこの島を支配していた絶望を拭いされただろうか。記憶の中に閉じこめたままの美しい少年像を生ある者として実感できたなら、灰色の雷魚の目をのぞき込んでしまった白亜の目には、そこに新しい光景が見えたはずだ。


新笠、ハナ、蓮沼、蓼原らも良かった。
まったく想像するしかないが、こういう作品は一生に一回しか書けないものではないか。熱にうなされながら毒が回るにまかせて湿度の高い文章を書きつけたとしか思えない。プロの作家としての社会性を獲得してからでは絶対に生み出せない作品でデビューできた千早さんは幸運だと思う。
この感想も本書の毒が効いてるうちに書いたので、あとで素面で読んだら赤面ものかも。だけど、これで良い。この作品にはそれが相応しいと思うのだ。