若合春侑/腦病院へまゐります

ちょっと前に古本屋で買っておいた本。早く読みたいような、読むのが怖いような感じで他の本を先回しにして、その間一ヶ月以上もかけて職場にあった日本文学選集の中の『谷崎潤一郎集』を昼休みなんかに読んでおいたのだった。
昔は会社に読書クラブがあったらしく、数人の有志が主に読み終えた本を持ち寄って細々と活動していたらしい。それが今でも休憩室に置かれたままになっている。休憩時なので同僚と談笑しつつ、せいぜい一日十ページも進めば読んだ方という、そんなのが読書といえるかどうか、ましてバカ話しつつ集中力ゼロで谷崎を読むのもどうかと思うが、とりあえず『痴人の愛』『刺青』『卍』には目を通しておいた。想像力ビンビンの学生時代に読んだときのようなアングラな背徳行為へのワクワク感はなく、むしろカラリと乾いた冗舌な文体と当時のハイカラな者たちのユーモアに富んだ会話が印象深かったのは、自分がもうとっくに擦れきった男だからだろうか…

そこでこの作品だが‥うぁ、きついなこれ…
※R-20指定。性倒錯・SM系陽性の人は読むべからず。


若合春侑(わかい すう)/腦病院へまゐります(171P)/文藝春秋・1999年(090319-0321)】
第86回文學界新人賞受賞作


       


昭和初期、カフェで働いていた女が自分より一回りも若い帝大生に惚れてしまう。男は谷崎潤一郎を信奉し、女を啓蒙しつつ倒錯した世界に引きずり込んでいく。男の要求をすべて無条件に受け入れてこそ愛だと信じる女だったが、やがて非日常の関係だったはずが現実生活に影響を及ぼし始める…(表題作『腦病院へまゐります』)

旧仮名遣いで、入院前にしたためた「おまへさま」への書簡形式で女の一方的な想いと、男の苛酷になる一方の要求が記される。
予想以上にリアルでフルコースだったので(ノーマルなオオカミ族♂としては)面食らった。こうまでされて、なお男に捨てられるのを怖れる女の一途さが(ノーマルな男としては)理解できなかった。
帝大卒、留学経験もある銀行の跡取りの男は、『卍』で光子と結婚を目論んだ男に似ているが(やたらに誓書を書かせるところも)、男からすると、この男が気にくわない。二十代前半でこんな奴って、どんだけ歪んでんだか。この歪みっぷりを谷崎の悪魔主義に全部おっかぶせるのは短絡だと思うし。そんな若い坊っちゃんにこの世界の深い愉しみがわかるもんか!(←やけに力説)

 私、腦病院へまゐります。死ぬるは全然怖くない、生きる方が大變だ。人が生まれて生きるは此の世でやるべき宿題が有るからなんだろう。此の考え方はおまへさまと同じ。「此の世に生まれたのは何かの使命が有ればこそ、使命を全うせずして死ぬる譯には行かない」 おまへさまの生きる使命に、私を苛め抜く事も入つてゐたのでせうか。


生理的な不快感が強く文字どおりに、引く。が、エスカレートするほど虚ろになっていくのに、過剰な行為がなければ愛と信じられないのを、愚かだと言い切れるか。耽美な官能に酔うのではなく、浮ついた口約束に頼るでもなく、ただ肉体に刻まれた傷の深さこそが愛の深さだと、いっそ割り切ってしまえればどんなに救われるだろう。
肉体と精神の、どちらかが壊れるまでのせめぎ合い。陵辱と従属の悦びは薄い、破綻寸前の奇跡的なバランスでやっと保たれる。そんなぎりぎりの世界に棲み、鋭利な刃の上を渡り切る共同作業の達成感にだけ、絶頂に震え、生の証を見出すということもあるのかもしれない。

昔見た「SMスナイパー」のボンテージ写真はたしかに美麗だった…(村上龍も何かで書いていたと思う) それは縛る側と縛られる側のパートナーシップが現れていたからだ、そこには確かに瞬間的に「愛」みたいなものが漂っているのが写っていたからだ。


これは文学作品と言えるのか?文学賞選考委員なんて、だいたい大胆な性・暴力描写に弱いしさ(山田詠美さんが出てきたときの騒ぎっぷり…)、あ、でも不快だったり嫌悪をかき立てるのもまた文学ではあるか。混乱しつつ苦い思いで続けてもう一篇を読んだ。


まだ幼い頃に母親が若くして自死してしまい、ある物書きのもとで数十年間女中として働いてきた芙蓉。意思を必要とされない暮らしを続けるうちにほとんど言葉を失い文盲に近い彼女は主人の死に自分も後を追う決意をするのだが…(『カタカナ三十九字の遺書』)

こちらは、良かった(男が女の無知と弱みにつけこんで虐げるという場面はあるので、注意)。
大正の子供時代から老年の今まで奉公人としてしか生きられなかった女が死を前にした回想の中で、彼女にとって全てであったはずの主人との関係に隠されていた事実を知ってしまう。こちらも時代ゆえの男女間の主従関係を描きながら、そこにひそんだ男のエゴと受け入れるしかなかった女の間で成立していた暗黙のバランス。主人の死後、老いて身寄りもない彼女は自分を無知の闇に閉じ込めたものに初めて気づく。
女としての性(さが)が悲しいのではなく、文字も言葉も不要な世界に生きるしかなかったことに、悲しさを感じた。

イロハから教えられた芙蓉が初めて自分の気持ちを言葉で表現したのは、消え入りそうな小さな声で云った「恥ずかしい」だった。後に書斎となった勉強部屋に呼ばれて文字の学習をした後は、必ず足の付け根を晒す行為になった。

この作品を読み始めてすぐに思い出したのは、スクラップ帳に貼ってある朝倉喬司氏の近著『老人の美しい死について』の小さい書評欄の切り抜き。
明治生まれの自死した三人を取材した一冊で、その一人が働き者の農婦だった木村センさん。骨折して働けなくなって縊死した彼女は遺書を書くために晩年になって初めて文字を覚えた。
その遺書は「一人できて 一人でかいる しでのたび ハナのじょどにまいる うれしさ」というもの。どんな思いでこの遺書を書いたか、なんだか無性に切なくなったのを思い出して、この主人公・芙蓉の姿と重なり合ったのだった。

時代の変遷と主人の再婚のたびに台所の光景が変わったという女性ならではの視点も良かった。

しかし、女性の新人賞受賞作品には強烈なものが多いな……