若合春侑/蜉蝣(かげろふ)

仕事中に『腦病院へまゐります』のことをふと思い出したときに、肝心なことを見落としていたのに気づいた。昭和初期という時代のことだ。当時の日本は、日本ではなかった。大日本帝國。女は子供を産む道具と見なされていた(今でもそう口にする輩がいるが)、男尊女卑の社会。谷崎の『痴人の愛』や『卍』が衝撃的に迎えられたのは、登場人物が社会規範を意志的に逸脱する自由な女性だったことも大きな要因だったのだ。不倫や堕胎は非合法な行為で、事件として新聞沙汰にまでなることが『卍』にも書かれていたっけ。もちろん婦人参政権なんてずっと先のことだ。
そんな時代性を念頭に置いて『腦病院へまゐります』を読んでいたら、もう少し違った読み方ができたかもしれない。あの女性は何かに抗っていたのだろうか?

若合春侑さんの二冊め。装丁も素敵だし、平穏な出だしにほっとして、いい感じいい感じと思っていたら、、、
あ、やっぱり… ※R-20指定。性倒錯・SM系陽性の人は読むべからず。


若合春侑/蜉蝣(かげろふ・201P)/角川書店・2003年(090322-0324)】


       


上野の美術学校で週一回、裸婦モデルをすることになったカフェの女給・歸依(きい)は一人の繊細な画学生・榊に恋心を抱く。束の間二人は激しい恋におちるが、ある日榊は行方も告げずに消息を絶つ。失意の歸依の前に現れたのは佐々愁雨という初老の画家だった…


ああ、思考がついていかず字面を追うだけで読み終えた。最後の方は場面を想像するのも苦痛だった。

腑に落ちない点があったので、いくつか挙げておく。

  • 主人公は街いちばんの別嬪さんのはずなのに、そのわりに関わりになるのがどうも不釣り合いな男ばかり
  • 貞操観念に厳しい時代だったろうに(特に嫁入り前の娘には)二人の娘の行状に無関心に見える母親
  • 前半、堕胎経験があるゆえに歸依は自らを穢れた存在だと恥じて何かと絶望的な心境になるのだが、それは当時の女性の意識として当然のことなのか、彼女独自の思考なのか、不明瞭
  • 榊はなぜ歸依に何も告げずに渡欧したのか?貧乏画学生で渡航証など持っていたはずがない彼が、愁雨の手配があったとはいえある日突然欧州行きの船に乗れたとは思えない

 抑も、榊がくちづけの前に『蜉蝣』とやらの詩を詠つたのも、其の内に、自分が急に歸依の前から消えて終ふ事を暗示したのであつて、面倒を避けて最初から防禦の體勢でゐたのかも知れない。
 さういふ事だ、馬鹿馬鹿しい。
 鼻の奥がくすぐつたくなり、クックッと笑ふ。


男女の絡みは本能的な感覚が描かれていて上手いし生々しい迫力もあるのだが、あまりに強すぎて物語全体のバランスの中では浮いてしまっているように感じた。そこまでの流れが歸依の本能的な体の反応のせいで霞んでしまうのだ。性行為を媒介にしてしか物語が展開しないかのようで(必然的に密室空間で他者は介在しないのだ)、歸依という女性は単に多情なだけだったかとも思えてしまう。

上記のような???がありながら、目を背けたくなる描写がありながら、最後まで読んだのは、旧仮名遣いのこの独特な世界観が嫌いではないからだ。もうちょっと時代の括りというか、当時の社会情勢が絡められていたら、一人の女の個人的体験を超えた共感を持てたのではないかと思う。この時代だからこそ、こんな人生があったというところまでを期待していたのだ。

 幾度昇り詰めても足りず、口を吸ひ、ふたつの魂をどろどろの溶液にして溶け合はせ、絡み合ふ。
 肉體が邪魔になる。
 肉と骨と皮膚が、溶け合はうとする魂の邪魔をする。
 體ぢゆうからの液體を薄い蒲團に染み込ませ、涸れない涙を嘗め合ふ。
 一秒たりとも離れられずに、日射しの眩しさも見ずにゐた。


それと、読んでるうちに別の興味が湧いてきたからだ。
『腦病院』でも感じたのだが、官能描写がけっこう男性的に思えたのだが…、若合春侑さんて、本当に女性なんだろうか?実は男で別名で官能小説とか書いてたりするんじゃないか?というミステリーチックな興味。(女性ならではと思える表現も確かにあるのだが)
それともう一つ。ここまでのこだわりを見せつけられると、否が応でもあのお方の名前が浮かぶ(前の日記ではあえて伏せておいたのだが)。
で、その連想から少し調べてみたら、案外すんなりとこの主人公・歸依のモデルらしき存在にたどり着いた……キーワードは「竹久夢二」。
そちらの興味を持ったので、機を見て関連本を探してみようと思っている。幻冬舎アウトロー文庫あたりにないかな?