J・ロンドン/白い牙

まったく、人間てやつは… 若合春侑さんの二冊を読んで、ささくれ立つオオカミの心。あとから考えれば考えるほど、主人公の女性の悲劇よりもSな男への不信感が強まってくる。どうせあいつらみんなB型なんだろうぜ(B型の人ごめんなさい)、あんなことして快感が得られるなんて… あれって、気持ちいいのかな?
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ハッ!なんかうっとりしてた!なんか変な仮面つけてムチ持って立ってた。あれ、オレやられる方?やばいやばい、あっちの世界に惹かれてる?

気持ちがメロウなときには基本に立ち返るべきだ。鼻筋に皺を寄せ、くちびるをめくり上げてその牙を剥き出しにして、唸ってやれ。高々に鼻を突き上げて喉をふるわせ、月に向かって思いのままに吠えろ!そうだ、野性を取り戻すのだ。

昨年の『野性の呼び声』に続いて全オオカミ族待望の新訳刊行。光文社さん、ありがとう!


ジャック・ロンドン/白い牙(476P)/光文社古典新訳文庫・2009年(090325-0328)】
訳:深町眞理子
Jack London‘White Fang’1906


       


アメリカ大陸の北の原野。四分の一イヌの血をひいて生まれたハイイロオオカミの子がインディアンに飼われ、さらに白人に引き渡されて犬として働くことを強いられる。


オオカミ族としてあるまじきことだが、今でもどっちがどんな話だったか混同することがあるので、ここに書いておこう。
 ・野性の呼び声(または、荒野の呼び声)‘The Call Of The Wild ’1903 …橇犬バックが野生に帰ってオオカミ化する
 ・白い牙…オオカミが人間社会に順応してイヌ化する
こんなに単純化しちゃマズイか。ま、メモとして。

…そうしてこちらが見ているあいだに、そいつはわざとらしく伸びをした。ちょうどものぐさな犬がやるように、ゆったりと大きく伸びをしてみせると、つづいて今度は正面からこちらを見据えて、あくびをした。その目つきは、見るからに支配者然としていて、さながら、今はちょっとお預けを食ってるけど、ほんとはおまえなど、じきにおれに食われることになっているんだからな、とでも言っているようだ。


子供の頃に読んで(多分いちばん初めは絵本だった)今でも読める本なんて、そうあるものではない。読んだのがこれで何回目になるか、買い直したのが何冊目になるのか、わからないほどにジャック・ロンドンのこの二冊はいつでも手元にあった。格調高い正確な英語で書かれているのを知って、原文のペーパーバックを買ったこともある。

なので今さら内容について、あらためて感想を記すつもりもない。
これを所詮人間目線のフィクションだと言ってしまうのは野暮なことだ。深読みすれば白人至上主義的な人間の描き方に気づくかもしれない。オオカミが人間の文明社会でヒトと共に暮らすなんてありえないと批判的にもなれるだろう。
だが、問われるべきは、ぬくぬくとした安穏な世界でぼんやり生きている人間自身なのだ。濁った目に映るのは、濁った世界でしかない。

望んだわけでもない関わりを強いる人間の暴力に服従するのではなく、学習して順応してみせる。それもホワイト・ファングの野性の一部分なのだ。ずる賢いやり方で彼を利用しようとすればするほど、彼の野性はより鋭敏に、いっそう研ぎ澄まされていく。

オオカミを凶悪な存在に追い込んだのは誰か。その存在を何故それほどまでに畏れるのか。人間がとうの昔に捨ててきたもの、なくしたものを彼らが変わらず体現し続けることは、人間にとって都合の悪いことなのだろう。人間たちが遠去かって簡単に忘れたものは、この動物の胸の中に無限に広まったまま、あるのだ。

あれ?『神なるオオカミ』の感想みたくなってきたぞ(笑)

それの占めていたスペースの真ん中に、ホワイト・ファングは腰を落としてすわりこんだ。そして鼻面を月に向けた。喉が激しい痙攣にこわばり、しぜんに口がひらき、そして一声、悲痛な叫びがあがった ― 胸のうちの孤独と恐怖、キチーを失った悲しみ、過去のあらゆる悲嘆や苦しみ、そういったものだけでなく、これからの苦難や危険への懸念までが、すべていっしょになって、一気に喉もとにこみあげてきたのだ。それは長く尾を引くオオカミの咆哮だった― 声をふりしぼり、悲嘆をいっぱいにこめた咆哮。それは彼の発したはじめての遠吠えだった。

新潮文庫版『白い牙』(訳:白石佑光 1958年)は、多分、原文のドキュメンタリータッチに忠実で、説明的な文が重ねられている。昭和33年刊ということを思えば当時としてはかなり読みやすく訳出されていたのだとは思うが、この深町さんの新訳は、より情緒的な言葉が選ばれていて、当然現代的に読みやすくなっている。
比較のため双方から同じ部分を引用しておく。

(見せ物としてブルドッグと闘わせられて深い傷を負ったファングをスコットが連れ帰り、なつかせようとするシーン)

・いっぽう、ホワイト・ファングの側に必要とされたのは、ほかでもない、一個の革命であった。本能や理性による刺激、衝動といったものを無視し、経験をしりぞけて、生それ自体が偽りであったと示すこと、それが彼に求められたことなのだ。(本書)

・またホワイト・ファングにとっては、革命そのものが必要であった。本能と理性の強い衝動を無視し、経験にさからい、さらに生命そのものをあざむかなければならなかったからだ。(新潮文庫版)

ちなみに新潮版が1ページ16行371Pなのに対し、本書は15行で476P。ページを開いたときに行間が広く感じた。また古典新訳シリーズのコンセプトだと思うが、若者向けということか、漢字熟語も極力少なくされているようだ。
余談だが、昨年三島由紀夫金閣寺』文庫本を買おうと思ったら、字が大きく行間スカスカで、これは三島の本じゃないだろ!と怒りを感じたことがあった。三島由紀夫が生きていたら、あんな形で世に出されるのは絶対に拒んだはずだ。(本書はそこまでひどくない、大丈夫)


いつかオオカミ族の子供が生まれたら、この話を聞かせてやろう。母オオカミが子に消化した肉を食わせるように、それまでに何度も何度も噛みしめてためておいて、与えてやろう(いつになるやら。オレの遠吠えは、ワタリガラス族のあの娘に届いているんだろうか…)