菊地成孔+大谷能生/東京大学のアルバート・アイラー

初めて買ったジャズのCDがアルバート・アイラーAlbert Ayler “Swing Low Sweet Spiritual” だった。確か二十代前半だったと思うのだが、所謂ジャズの定番名盤ではなく、どうしてこのアルバムを選んだのか、今となってはもう思い出せない。
それから必聴盤と呼ばれるアルバムをいくつか買いはしたけれど、特にジャズを好きになるということもなかった。こんな本を見つけなければ、多分、死ぬまでアイラーの名前すら思い出すこともなかっただろう。


菊地成孔+大谷能生/東京大学アルバート・アイラー(東大ジャズ講義録・歴史編335P、キーワード編438P)/文春文庫・2009年(090325-0407】


       


2004年、東大教養学部でジャズメン・菊地成孔大谷能生が行ったジャズ講座の講義録。前期は「音楽の記号化による処理」をテーマにジャズの歴史を伝え、後期は「ブルース」「ダンス」「即興」「カウンター/ポスト・バークリー」をキーワードにゲストも招いて講義が行われた。
もちろん正規の一般教養の1コマだったのだが、教室には東大生を上回るモグりの聴講生が溢れ、異様な熱気に包まれたという。


ジャズ好きでもないし、年々感性も好奇心も失せつつあるというのに、この本をこんなに面白く読めるとは思っていなかった。スイングジャーナルを買ったことは数度、ジャズ史に興味があるわけでもないので、講義のテーマはそっちのけで、ミュージシャンだからこそ語れるジャズ・ジャイアンツたちの面白エピソードを追うだけでも楽しかった。現代の若者向け(彼らは近い将来偉くなる東大生なのだ!)の軽妙な語り口と鋭い批評センスでジャズのみならず、ポップス全般をカバーしていて飽きさせない。付箋紙貼りまくりで読んだのだった。


アイラーは前期・歴史編「第七章フリー・ジャズとは何からのフリーだったのか」で紹介される。『東大でアイラーがかかることは二度とないだろう』と菊地氏。バードやマイルスならかかるかもしれないけど、、、やっぱアイラーは‥みたいな、そういう象徴的存在なんだろうか。もっともアイラーだって、自分の作品が40年後の日本の最高学府で聴かれて本のタイトルにまでなってるなんて、よもや思ってもいなかっただろうが…
(だけどね、アイラーより、もっと絶対かからないのは、ハウリン・ウルフだろう。この講義でウルフの ‘Moanin'in the moonlight' がかけられたと知ったときには、ぞくぞくした!「何だこれ?」東大生の間に動揺が広がり戸惑う様が目に浮かぶ… オオカミ族のソウルは東大生にはわかるまいて!)



『キーワード編』を読み終えた今日、ある本を思い出した。処分するつもりで箱詰めしてあった中に、その本はあった。


中上健次/破壊せよ、とアイラーは言った/集英社・1979年】


       


ページを開くと、はさんであった紙片がハラリと落ちた。購入日と値段がぼんやり滲んだ大学生協のレシートだった。あぁ、あの頃…としばし追憶に耽る。
中上は、安いクスリで朦朧としながら新宿をふらついて、いつものジャズ喫茶にたどり着いてアイラーをリクエストする。これがジャズに対する正しい態度だったとはとても思えないのだが、当時はそういうものだったのだ、というのが全共闘世代の連中のいつもの言いぐさだ。
五木寛之『青年は荒野をめざす』のジャズ・ミュージシャンを目指す青年は、シカゴでもニューヨークでもなく、何故かモスクワに旅立つ。『さらばモスクワ愚連隊』だってジャズをとりあげているけど、芸能ジャズ?みたいな、なんか変な扱いだった記憶がある。

日本の中だけで(あるいは日本の文壇の中だけで)ジャズが自己完結してしまっていた時代があったのだ。敏感なはずの作家のアンテナが受信したジャズのイメージが、音楽そのものより遥かに大衆性も影響力もあるベストセラー小説に書かれて発信されることで、何の批評眼もないまま定着して残ってしまう。

中上健次アルバート・アイラー伊坂幸太郎ローランド・カークの間には大きなジェネレーション・ギャップがあるように見えるが、ジャズをBGMとしてしか扱えないという点では同じだ。
村上春樹はジャズ・マニアだが、ビーチ・ボーイズも大好きだ。彼は自分の小説にミュージシャンの名前を羅列するのが好きなだけだ。
バップ〜モダン〜フリー・ジャズへと変容していったジャズに正面から対峙し、日本語で文章化したものを自分は読んだことがない。


ブロウしては書き、ブロウしては語るうちに菊地氏はジャズを記号化(=言語化)して語れるようになった。
本書は講義録ということで話し言葉で記述されているけれど(これは大谷氏の仕事らしい)、UA×菊地成孔cure jazz』に菊地氏自ら書いたライナーの文章は素晴らしかった。これを読んだUAはさぞかし嬉しかっただろう。
それから、月刊PLAYBOYコルトレーン特集(2006.3)に寄せた文も面白かった。同じサックス吹きなのに演奏に関する話はゼロ。ちょっと変わった切り口でコルトレーンの精神性に迫っていた。あの頃ジャズ喫茶で…という話ばかりだらだら書いてるライター陣の中、一人異彩を放っていたのだった。


これをジャズ偽史だと自嘲する菊地・大谷両氏にそんな意志はないのかもしれないが、二人が目論んだ歴史改ざんは、日本の(とりわけ全共闘世代の)ジャズからジャズを奪い返す作業のようにも思える。両氏と同じくリアルタイムでフリー・ジャズすら体験していない者からすると、この国でフォークやグループ・サウンズなんかと一緒にあらねばならなかったジャズが、とても不幸に思える。日本の文脈に囚われたままのジャズを現代の若者に託して、もう一度解放しようとする試みは、きっと有効であるはずだ。
でも、記号化だけによっては、フォローしきれない音楽も、あるよね…?『わかってるよ!』と菊地氏は言いそうだけど。


これを書いてる間、 “Swing Low Sweet Spiritual” を繰り返しかけていた。ワン・ホーン・カルテットで黒人霊歌(スピリチュアル)をシンプルにプレイしたこの作品は、ジャズというよりはソウル・ミュージックのように聞こえる。
アイラーは記号化からは、ちょっと遠い所に立つ人なのだ(多分その距離は、これまでの日本式ジャズと現在の菊地成孔との距離に近い)。講義中、最も時間を割いているのはマイルスとコルトレーンなのに、なぜ本書のタイトルはアイラーなのか… 想像すると、面白いではないか。

講義の素材になった “Spiritual Unity” も持っていたはずなのに、ない… 今度の休みに買いに行こう!

アルバート・アイラーがブルックリンのイースト・リバーで頭部を撃ち抜かれた水死体となって発見されたのは1970年11月25日(享年34歳)。三島由紀夫が自決したのと同じ日だった。