椎根 和/平凡パンチの三島由紀夫

前回『東大アイラー』の最後に三島由紀夫の名前を持ち出してこの本につなげたのだが、これはまったくの偶然。中上健次→アイラー→三島、と同列の連想が自分の中にできたような気がする。
で、これと同じような発想がこの本の中にも書かれていて、笑ってしまったのだった。


【椎根 和(しいねやまと)/平凡パンチ三島由紀夫(254P)/新潮社・2007年(090408-0411)】


六十年代の最後の三年を、若者向け雑誌「週刊平凡パンチ」の`三島番´記者として過ごした著者が、素顔の三島由紀夫を振り返り彼の自決の真相に迫る。


       


平凡パンチという雑誌の性格上、彼が書いたのはスーパースター・三島を揶揄するような記事が多かったという。五段だという三島の剣道の腕前を「実質三段程度」と書いたのがきっかけで、三島は半ば強引に彼を弟子にして毎週の稽古に付き合わせた。

三島はアタッシュ・ケースをテーブルにのせ、手慣れた様子で解錠した。当時は、ショーン・コネリーが演じていた007映画が大ヒットしていた。ぼくは、三島のアタッシュケースにも、ボンド映画のように、悪者どもをやっつける秘密の新兵器が仕込まれているのではないか、と目をこらしたが、何も出てこなかった。ただ、A4版の書類が二、三枚入っているだけだった。この愛用のアタッシュケースは、自衛隊総監室に乱入したときに大活躍した。檄文、ビラ、ハチ巻、ロープ、短刀、脱脂綿などをすべて、これに収めて持って行った。


24歳(1949年)で『仮面の告白』を、31歳(1956年)で『金閣寺』を書いてしまった三島は、六十年代には文壇以外での活動で人気・名声ともピークに達する。今では考えられないことだが、パンチ誌上の人気投票では長嶋茂雄石原裕次郎をしのいで必ず上位に名を連ねていた。
この本で最も興味深いのは、当然ながら、三島由紀夫の作家以外の顔を見せてくれるところにある。

・1965年のビートルズ来日公演の初日を観に行き「女性自身」に印象記を書いた
全共闘のデモ見物に変装して何回も行っていた
・1970年3月の「ananアンアン」創刊号に祝い文とエッセイを寄稿した
・瑤子夫人は三島の行動をまったく知らされておらず、カーラジオで彼の死を聞いた、etc…

三島と野坂、時代を代表する二人の作家に平凡パンチの腕章をして、10・21の観戦に行ってもらい、その二人の感想が掲載されたことによって、平凡パンチ(1969年11月10日号)は、これ以上輝けない、ピークのときを迎えた、と実感した。ぼくは、他誌が絶対に考えつかない、実現できない“ゴージャスな夢の企画”をなしとげたという、何の意味もない、誇らしげな気持ちになったことを記憶している。ただ、この記事は新聞記事で、いっさい評価されなかった。無視された。三島のやることはすべて信用できない、という判断がマスコミ全体に蔓延しはじめた時期だったのかもしれない。

※10・21=1969年10月21日・新宿での反戦デー学生闘争


ただ、後半は三島の映像感覚や六十年代の新しい思想、ポップ・アートとの絡みで三島論を展開していくのだが、強引なこじつけが目立ち、番記者にしては乱暴な書き方に思えた。
たとえば…

日本を占領したGHQは、血のりが出てくるような歌舞伎・映画の上演を禁止していた。太平洋戦争で、あまりにも大量に日本人の本物の血を見せられすぎた米国人の忌避の感情が、日本に対しての芸術政策となった。GHQは日本の封建主義が復活するのをさけるため、と説明した。三島は切腹とか、大量の血に日本文化の精髄をみいだしていた。

暴力と血の映像のことで、三島の自衛隊乱入事件とたけし軍団の事件を絡めてみたり。

それから、同時代の世界的アイコン、チェ・ゲバラモハメド・アリとのシンクロニシティがあるとも書いている。
(三島が楯の会を率いて自衛隊の訓練に参加していた頃、ゲバラボリビア義勇兵を募っていた。三島がそれに応じてそこで殉死していれば…とか、「聖セバスチァンの殉教」をテーマに三島もアリも写真を撮ったとか。アリのことを『マーチン・ルーサー・キングの盟友』だなんて書いてもいる)

これじゃこのブログの妄想と同レベルだ(笑)
(あと、やはり『東大アイラー』にも書いた、五木寛之『青年は荒野をめざす』は1967年直木賞受賞直後にパンチで連載が始まったとのこと。なんか色々リンクしてるな〜)


そんなことはないと信じたいが、著者は三島の作品を読んで、最低限のリスペクトを持っていたのだろうか? 他にもっと書けることがあったんじゃないか。
三島の死について語るなら、終戦直後に彼が抱いた喪失感から始めるべきだと思うのだが。六十年代の活動だけで結びつけようとしても無理がある。
まぁ良くも悪くも週刊誌的で、六十年代に青春を過ごした人には面白い読み物なのかもしれないが、まず文学者・三島を知りたいという人間にはべつに読まなくてもいい本だった。
(マガジンハウスからではなく新潮から出てるのは、なんで?)



これと一緒に『週刊現代4.11(創刊50周年記念特大号)』も買った。ふだんはまず買わないのだが、たまたま目について買ってみたのだ。グラビアの1966年の吉永小百合が美しい! (表紙の女の子、相武紗季をこれまで〈そうぶさき〉だと思ってた…)
特集「各界42人の50年 心に残るあの出来事」で石原慎太郎が三島自決の日の衝撃を書いている(聞き書きかもしれないが)。
短い文だが、川端康成が石原より先に駆けつけて現場を見たらしいこと、三島の感性を今も敬愛していることを語っていて、やっぱり雑誌記者以上の説得力が、この人には確かにあるのだった。

週刊現代の創刊は1959年、週刊平凡パンチは1964年創刊・1988年休刊


ついでに小ネタをもう一つ。
寺山修司『青少年のための自殺学入門』から

何一つ不自由がないのに、突然死ぬ気になる ― という、事物の充足や価値の代替では避けられない不条理な死、というのが自殺なのであり、その意味で三島由紀夫は、もっとも見事に自殺を遂げたことになる。