中村文則/何もかも憂鬱な夜に

中村文則/何もかも憂鬱な夜に(138P)/集英社・2009年(090517-0519)】

地方の拘置所の刑務官である「僕」は、孤児として施設で育った。子供のときから心の奥に暴力衝動を抱えていて、表面上は厳格な看守を装いつつも、現在でもときどき発作的に暴発しそうになる自分をもてあましている。本当は自分の居場所はこちらではなく、あちら側だとの自虐も感じている。
「僕」は淡々と勤務をこなしてきたが、18歳で若い夫婦を殺害し一審で受けた死刑宣告を控訴しないでいる山井という青年を担当することになる。自分に似た境遇の山井には、あくまで看守と収容者の関係で接していたのだが、控訴期限が近づいたある晩、「僕」は彼に語りかける…


       


虐げられて生きてきた者たちが犯罪現場で初めて「生の実感」を得られたという告白に胸が詰まる。死刑を「人生で自分に与えられた初めての役割」だという山井の言葉にも。
快楽目的だと、欲求を満たすための短絡だと誰もが批判するが、そこまで追いつめた社会が問われることはない。追い込んで生きる道をふさいでおいて、なお平然と「死刑」だということの酷薄さに身震いもする。
死刑制度の善し悪しを云っているのではない。一方的に裁く側の、自分たちも属する社会制度の欠陥に盲目なまま、ただ異分子は排除すれば良いという機械的な判断が怖いのだ。一方で「命の尊さ」を叫びながら、同じ口で「悪いことをした人は死刑」と言う軽々しさにはなじめない。
裁判員制度が始まり、安直な殺人ミステリーや陳腐だがリアルではあるヴァーチャルな死体に慣らされた‘市民感覚’が法廷に持ち込まれようとしている。
裁く側はどうなのだ?という問いに我々は胸を張って誇れる社会環境を構成しているだろうか。殺した者は殺されろというのは、犯りたいから犯ったという犯人の意識と大差はない。


職務上、刑務官は死刑囚を担当することもある。死刑の任務に就くことも。
「僕」の上司である主任の生々しい経験として語られる執行の現場。実際に殺す役目の彼らでさえ、死刑制度の矛盾や曖昧な部分に疑問を持ちながら仕事をしている。明確な基準が示されないままで死を控えた人間に関わり、その最期に立ち会わねばならないことの苛酷。
『殺した者と殺された者の間に入る』刑務官の視点は重い。


そんな拘置所での仕事を「僕」はどうにかこなしてきた。収容者には感情を排して接し、極力トラブルを避けようとはしている。だが、自分もいつか何かをやらかして受刑する側になるはずだとの強迫観念から逃れられず、息苦しさは増すばかりだ。
自分の中の鬱屈を抑えることができず、泥酔した男を蹴り上げ、外国人の街娼を締め殺しかけた夜もあった。「僕」もまた、無抵抗な者、弱者への一方的な暴力によってしか自分を確かめられないと思い込んでいたのだろうか?
それでもぎりぎりの所でかろうじて踏みとどまっていられたのは、高校時代の友人とのつながりと、少年期を過ごした施設の恩師の言葉があったからだった。


『死にたければ勝手に死ね』。死刑を受け入れようとする山井に対して始めは冷淡だった「僕」に起こったさりげない転換。霧が晴れたわけでもなく闇に光が差したのでもないが、それでも、そこにあったのは希望だと信じたい。
山井に話したのは、かつて「僕」が恩師から受けた教えだった。それで山井が救われたわけではない。自分の中にしまわれたままだった言葉を初めて他者に伝えたことで救われたのは、むしろ「僕」の方だったのかもしれない。
興奮も陶酔もないが、それでも確かな生きている感覚を、与える。自分が与えられたものを、誰かに託す。それの繰り返しが小さな希望の灯を点すのかもしれない。たとえ死刑判決がくつがえらなくても、これでいいのだと思わされて、いつのまにか物語は終わってしまう。

「僕」がどうして刑務官を志したのか書かれていないのは欠点。「僕」を暖かく迎えた施設長の言葉もなんだか青臭かったりする。だけど、若い作家がイージーなエンタメ殺人に走らず、重い題材にじっくりと正面から取り組んだのは立派だと思う。
フィクションではあっても、小説でも映画でも、むやみに人を殺すべきでない。いや、むしろフィクションだからこそ、と言いたい。

それはオオカミ族の流儀でもあるのだ。