中山可穂/ケッヘル(上)(下)

刊行時に読み逃していた作品が待望の文庫化!

キース・ジャレットチック・コリアが一緒にモーツァルトを弾くのをNHKで観たのは二十歳前後だったか。いつもは感情のおもむくままにエモーショナルな演奏をするキースが神妙な面持ちでかしこまり、楽譜と指揮者を交互に見つめては自分のピアノ・パートを無難にこなしていく姿が異様でなんだかおかしかった。

鎌倉からウィーン、プラハ、ベルリン、パリ。モーツァルトを巡る旅の中に、記憶から薄れていたこのコンサートのことが会話の中にほんのチラリと出てくる。他にもジャクリーヌ・デュ・プレバレンボイム(弾き振り)のこととか。それとやっぱりカストラートのことも、小林秀雄の『モォツァルト』も。

モーツァルトは宮廷音楽でイージー・リスニングでしかないと思っている自分でも「モーツァルティアン」(モーツァルト・マニア)の偏執はわかる気がする(笑) 芸術への理解とは別にモーツァルトをこれほどありがたがる国は世界にないらしいが、そういう意味でもやはりとても日本的な小説であった。


中山可穂/ケッヘル(上456P・下532P)/文春文庫・2009年(090521-0525)】
※単行本は2006年・文藝春秋


愛人との逃亡生活に疲れ、さらにその愛人からも逃れるためにヨーロッパを放浪していた木村伽椰はカレーの海辺で中年紳士の遠松鍵人と出会い、彼のいっぷう変わった会社「アマデウス旅行社」で働くことになる。個人旅行をセッティングし同行する彼女が担当したのは筋金入りのモーツァルティアンたち。続けざまに客がツアー中に死亡し、彼女もその連続殺人事件に巻き込まれ、次第に深く関わっていく…

     


伽椰がヨーロッパの先々で巻き込まれる事件と鍵人のモーツァルトまみれの生い立ちが交互に描かれる。

同性しか愛せない伽椰の心情は男の自分にはわからないけれど、濃厚な生々しさと甘美な描写が美しい。その息をひそめた皮膚への意識の集中と絡め合いの閉じ具合と、スポコンマンガのような父と息子の旅のきしんだ開きっぷりがどうにもミスマッチで、二編の別々の小説を交互に読んでいる気分になる。
時代も場所も違うので、この二つがどこでどうクロスしていくんだろうと期待しながら読み進むことになる。

 私の頭は混乱しかかっていた。またしてもモーツァルトだ。どうしても話の中心にモーツァルトが出てくる。まるでこの世界はモーツァルト抜きでは一日たりとも動いていかないみたいだ。わたしはいつのまにこんな奇妙で偏った世界に足を踏み入れてしまったのだろう。


一人称の「私」として語られる伽椰の章は良い。だが、モーツァルト弾きの「僕(鍵人)」の章は(半分は父であり元指揮者の鳥海武の物語でもあるのだが)ツッコミどころが満載だ。

たとえば14歳のときに佐世保で年齢を偽ってバーで米兵相手にジャズ・ピアノを弾くという件りなんかは、なんだか『コインロッカー・ベイビーズ』みたいなノリだ。ジャズ・ピアニスト、キース・ジャレットが(とりあえず譜面どおりには)モーツァルトを弾くことはできても、クラシックしか弾いていないピアニストに(ましてやモーツァルトに特化した英才教育を受けてきた子供に)ジャズは弾けないだろう(というか、プレイできない)。
新聞配達をしてボクシング・ジムにも通う。漁師のまねごともする。モーツァルトはどうした?指はいいのか? 一方で演奏会後のアンナの憔悴と指へのいたわりは、しっかり書かれているのに…

鳥海のモーツァルティアンぶりも徹底していて、旅の行き先は列車番号とケッヘルNo.の符合で決めてしまい、西へ西へと九十九島にまで流れていく。その過程での「僕」の父親への心情の変化、少年と父親との関係性は女性同士を見事に書いた部分に比べると、あまり上手く書けていると思えない。
成人した鍵人が、やはり父親ばりにケッヘルの数字へのこだわりを見せる場面には笑わされるけど。

ウィーンの乾いた石畳の舗道にしみのように濡れた足跡が点々と続いていたら、それが彼女のけものみちになる。けものみちを辿ってゆけるのは、同じ匂いを持つけものだけだ。
…(中略)… このようにけものは、あとに続くけものに何らかの手がかりを残していくものなのだ。


できれば、音楽と愛の美しい物語としてまとめてほしかったという思いもある。天才、異端に頼るのではなく、命をかけてヨーロッパのコンクールに挑む音楽家たちの姿をどこかに映してほしかったという気持ちも。安藤アンナの家庭の事情よりも、もっと複雑で残酷で孤独な境遇を生き抜きながら芸術を究めようとする音楽家は現実にざらにいるのだから。
物語の始まりと謎解きに終わるラストにこれほどのギャップがあると、これは著者の目論みどおりに仕上がった作品なのかとも思えてくる。モーツァルトにこだわった着想と全体のテイストからすると、鍵人の高校時代の事件とそれへの復讐殺人なんてなくても良かったとすら思える(ほらみろ、ガキの話なんか書くからこんなことに…と物語の行方よりも小説の構成に不安になる)
魅力的な人物像と指先の感覚のみに賭ける世界が充分に描かれていながら、余計な事件が多くて萎えてしまう。出来るものなら鍵人のピアノを実際に聴いてみたいと思い、安藤アンナが実在するなら間違いなく自分もファンになるだろうとまで思わされるのに、焦点は彼らの芸術より殺人事件に絞られていく。そんな展開に苛立ちさえ感じた。


……、と色々と注文をつけたくなってしまうのだが、でも、すごく良かったのである! 序盤の素晴らしさに期待値がはね上がって、その後で減点を重ねてもトータルでは水準以上をキープ。前半の大量リードを楽々守った、みたいな感じなんだけど(笑)
読み終えてみると、祖父母・鳥海とさゆり、父母・鍵人と美津子、娘・アンナの三代に渡るモーツァルト一族の血と連鎖のお話なのだ。上に書いたような不満は、もっと面白くすることができたはずだと、なんだかもったいなく思えて仕方ないからだ。
それでもなお良かったと言えるのも、クラシック音楽をモチーフにする以上はそれを文章で存分に表現しなければならないことの困難に果敢に挑んだ著者の成果が美しい文章となって昇華しているからだ。これもきっと、「モーツァルトの思し召し」なのだろう。

中山可穂さん、ファンになりました!(でも、他の作品て男が読んでも大丈夫なのかな?)


ついでに… 高校時代の鍵人と美津子の結びつき方は、千早茜『魚神』白亜とスケキヨのモデルじゃないか?と思った。