柳広司/虎と月

四月に『シートン(探偵)動物記』を読んだ。『トーキョー・プリズン』や『ジョーカー・ゲーム』が話題になってもハード・ボイルド調は自分の趣味ではないと敬遠していたのだが、この作家にこういうパスティーシュの愉快な一面があるのを知って、実に意外だった。


【柳 広司/虎と月(244P)/理論社(ミステリーYA)・2009年(090527-0529)】


     


ずるいな、と思った。大好きな名著を再熟読し、その作者になりきって物語を再構築する作業はきっと楽しいものだろう。自分のオリジナル作品にはないプレッシャーもあるはずだ。柳広司らしさを出すよりもまず、モチーフへのリスペクトとコンセプトの理解に絶対の自信がなければできない仕事だ。『シートン(探偵)動物記』でもそうだったが、柳広司はそれを飄々と、しかし堂々とやってみせる。


詩人になりそこねて異類の身になってしまった李徴。その息子が失踪した父の行方を追って旅に出る。父の友人、袁參が最後に父に出会ったという近くの村に辿り着いた息子は、そこに確かな父の足跡を見つけ出す…
山月記』では触れられていない村人と役人の関係や社会情勢が絡められて、李徴の消息を推理していく。「本当に虎になってしまったわけではない」という可能性にも目配りしつつ、『山月記』の世界観を損なわぬよう、いろいろな推測を提示してみせる。


本書の内容に関しては、著者の個人的妄想の域を出たものではないのが残念。他の大多数の読者と同様に『山月記』の読み方を決定的に間違えているからだ。
李徴は虎になりたいという願望を胸に秘めていたから虎になったのだ。オオカミになりたい人間がいるのだから、虎になりたい奴がいてもおかしくはないではないか。

李徴は袁參に語る。「この前までは自分がなぜ虎になったのか不思議でならなかったが、今では、かつての自分がなぜ人間なんかであったのだろうと考える」と。
袁參に語り伝えた漢詩では自分の姿を「殊類」「異物」としている。ご丁寧にもこれを本書では「けだもの」としているが、行き過ぎた意訳であろう。これはかつての友人に対しての「殊」であり「異」なのであって、李徴はけして虎の身を恥じているわけではない。むしろ道を分かつことになった友人に贈ったすがすがしい訣別の辞であり、最後の咆哮は「かん違いすんなよ、俺は虎なのだ」という宣言だったのだ。
この漢詩を友人や身内の目線でやたらに感傷的に読みたがるのは日本人の悪癖だ。虎=けだものと見下しておいて離れた場所から憐れむ自分の姿に酔いたいだけの、ありがちな人間優位な目線。

想像してみるが良い、自分の中で獣がじわじわと人の心を侵蝕していく感覚を。その痺れるような陶酔に遠吠えの一発や二発、かましてみたくなろうというものだ。


考えてみると『山月記』を本で読んだ記憶はない。確か高校の教科書に載っていたのではなかったか。だから上に書いたのは原典を確認していない100%妄想。
ただ、「あとがき」に著者が書いているのと同じように自分もこの話が好きになり、部分的には覚えてしまうほどに繰り返し読んだものだった(ノートに書き写しては全編暗記してしまったという柳広司には負ける)。
そんなことを思い出させてくれて、『山月記』の強烈なイメージが甦って、かなり飛躍した妄想に走ってしまった… まったく『虎と月』の感想じゃなくなってしまったけど、パロディにおとしめないプロの作家的態度として柳広司の書き方は正しかったと思う。
柳氏には今後もこういう楽しい本も書いていってほしい。