星野智幸/ロンリー・ハーツ・キラー

先週から職場でも勤務中のマスク着用が義務づけられた。そのくせマスクの在庫が会社にないから、しばらくは毎日交換ではなく汚れたら各々交換していくというので、みんな不満ブーブーだ。
ちなみに地元の新型インフルエンザ感染報告はいまだゼロ。数日前に県内二人めの感染者が見つかったが、すでに快方に向かっていると新聞に出ていた。

実際のインフルエンザの感染拡大よりも、はるかに広範囲に渡る不安の蔓延。トヨタの赤字やGMの破綻報道がかき立てる不況感。世相といってしまえばそれまでだが、自分の生活には直接的な影響はないのにもかかわらず、自分が感じた個人的な不安が今の日本人の共通意識だと当然のように思えてしまうのはどういうことなのだろう。

こういうムードをいかに創り出して蔓延させるか。実感の乏しい生をただ生きるだけならば死も等価ではないかと問うこの小説は、最近の社会風潮にも確かに感じられる、曖昧なまま(だからこそ?)一方向へと流れやすいこの国の危険性を背景に描いているようでもあって、現実とのリンクに気づくと一層興味深く読める。


星野智幸/ロンリー・ハーツ・キラー(253P)/中央公論新社・2004年(090603-0606)】


黄砂舞い降りるメトロポリス。この島国を象徴する「オカミ」が死んだ。世の中から言葉が減り、人々が生きる気力を失う“カミ隠し”と呼ばれる現象が相次ぐ。親友のいろはを通じた出会いにより、この世界の真実を幻視した井上がとった行動とは― 三島賞野間文芸新人賞受賞作家による近未来幻想小説


       



三章から成る。一章は映像カメラマン・井上がオカミの死に続いて若者が無気力状態になる現象に、あるメッセージを読みとり、ネットへの声明とともに自ら行動に表す。
二章は井上の行為に反発しながらも事件の当事者として追いつめられていくいろはの、三章はいろはの同級生で彼女を匿う中国系の女性「モクレン」の、それぞれの手記という形で井上の残したメッセージとその波紋が語られていく。


何をしても当事者意識を持てず、社会に参加しないで生きている自分は死者に近いという無力感が「この世こそあの世」だという確信に変わって井上を突き動かしたのだった。
希望など持てないが、かといって絶望するでもなく、ただ生きている。そんな状態の安定を自己嫌悪するのは彼が若いせいかもしれないし、ナイーブだったからかもしれない。それを突き詰めて考えていくと、終戦によって男らしい壮烈な死を阻まれたことを激しく嘆いた三島由紀夫にまでいってしまうのだが。
どう生きるべきかなんて青臭い議論はしない。自分の生のありようにそれほどの執着なんてない。そんな第三者ヅラをしている人間が、実は危なかったりする。
いつ自分がそれに触れて急に精神に変異をきたすかわからない、それがこの作品に通底して漂う不穏な空気で、それは新種のウイルスのようなものなのだ。

自分が消える瞬間っていうのは、自分を隠すことで得られるわけじゃなくて、自分がこの世界の一部であることを責任を持って引き受けて公に見せることから、生まれるんじゃないかな。


そのムードが井上のアップしたテキストによって、一気に国中に広まり心中の連鎖を巻き起こしていく。あたかもその様は、現行の新型インフルエンザのプチ・パニックを思わせる。
最近の小説のネット万能論にはいささか辟易としているのだが(ネット社会なら何でもありうるという盲信は小説を書く上で便利なのだろうが)、一方で既成メディアに個人で対抗する手段としてのネットの有効性としてのロマンみたいなものが確かにこの作品には感じられた。
ただ生きているだけだったら死んでも(殺しても)良い、という飛躍を経て事態は歯止めが効かないままに「無差別心中」「正当防衛心中」にまで発展していく。

今の若い人たちには想像もつかないかもしれないが、昔は自殺したアイドルやロック歌手を後追い自殺する者もいたのだ。周囲は衝動的で幼稚な行為だと批判的に云ったのだけれど、やはり(ごく限定的ではあっても)そういうムードが支配的になる時空間があったのだろうとも思う。一時期問題になった集団自殺も、一線をより越えやすくするムードの共有があったのだろう。現実に起こった現象への連想が重なり、ここで起こった事態は決して想像上の誇張だと切り捨てられない。


事態の推移は二章のいろは、三章のモクレンの手記で明らかになっていく。
モクレンが出した意見広告に彼女の氏名は「白木蓮(ハク・モクレン)」と記述されていて、根拠もなく後で実は「白木 蓮(しろき・れん)」という日本人なのが明かされるのだ、と思っていたら、そんなことはなく中国系の人だった。なんで中国人なのか?少々不自然に思ったのだが、オカミの死に影響を受けない日本人ではない人物でなければならなかったのだ。
このモクレンが三章のうち最も短い最終章でなんだか上手くまとめてしまって、ちょっとあっけにとられる。彼女がこういう役割を果たすのかと意外な感じもありつつ、あっさり片をつけてしまう。渦中に巻き込まれまいとするあまりに逆に巻き込まれて行きそうになるいろはにさりげなく救いの手を差し伸べ、ときには確信犯的に突き放したりして達観した物言いで彼女に生の実感を取り戻させていく。
ちょっとこのモクレンさん一人だけその強さはないんじゃないの?と思いつつ、そこまで井上といろはの極論をめぐる不確かな揺れにつきあってくると、彼女の腰の据わり具合が心地良く爽快でさえあるのだった。

 本質を必要とするのは、満足に生きていない人だ。何らかの欠落感に悩まされている人だ。それを埋めようとして、本質は作り出される。いわゆる「表現」が始まる。
 私は言いたい、ただ映像を撮って、ただ映しているいろはは、あなた自身が表現なのだ、って。


いろはとモクレンの女性同士の会話が意外に上手く書かれていて、抽象的な議論になるのに面白かった。
ただ、二人とも子供を持つことをためらう。オカミの後継問題も絡めて、未来への連続性を断って「自分の代で終わりにする」という話につながるのだけど、この部分だけ‘毒身'者の弱みが出てしまった感が。


頻繁に更新されている星野氏のブログ『言ってしまえばよかったのに日記』。最近の記事でも新型インフルへの過剰反応ぶりと年間自殺者三万人超の冷厳な事実が対照されていた。自分が生きている世界へのき真面目な関心と、そのまっとうな意見の表明を読めるのは嬉しいことだ。死を軽く扱わないし、いい加減な話を書かないという信頼を寄せられる作家は(自分にとって)実は案外少ないのだ。

サッカー好きの星野氏のことだから、南アフリカ行きを決めた代表のことを今頃書いているかもしれない。